足利義昭
足利義昭画像(東京大学史料編纂蔵)©Public Domain

足利義昭


足利義栄

織田信長

豊臣秀吉

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足利義昭 あしかがよしあき( A.D.1537〜A.D.1597)

室町幕府第15代征夷大将軍(在位1568〜1588)。12代将軍義晴の次男。興福寺一乗院に入り覚慶と称したが、兄の13代将軍義輝が松永久秀らに殺害されたため還俗、織田信長と結んで幕府を再興した。やがて信長と反目、武田信玄・浅井長政・朝倉義景らと挙兵したが敗れ、室町幕府は滅亡した。その後毛利氏をたよって幕府再興をはかるが失敗、出家して山城槙島に隠棲、豊臣秀吉から一万石を与えられた。

足利義昭

信長に抵抗を続けた最後の足利将軍

信長を追いつめた包囲網の形成と崩壊

足利義昭は12代将軍足利義晴の次男である。しかし、将軍家とは名ばかりで、1565年(永禄8)には兄で13代将軍義輝が家臣の松永久秀らに殺害されるほど、権威は地に落ちていた。このとき義昭も久秀に幽閉されたが、近江の和田氏を頼って脱出、諸国の大名にげきを飛ばし、将軍家の再興へ着手する。六角氏の力で入京を試みるが果たせず、越前の朝倉氏を頼る。しかし、朝倉が上洛に消極的だったため、明智光秀の斡旋で、美濃を平定して勢い盛んな織田信長に頼り、1568年、ようやく上洛を呆たし、15代将軍となった。

しかし、将軍としての権限を制限する織田信長と対立し、義昭は甲斐の武田、石山本願寺、近江の浅井・六角、越前の朝倉らと連携し信長包囲網の形成を画策。しかし、包囲網は武田信玄の急死や朝倉の消極的行動で崩壊した。信長との共存が不可能となった義昭は、山城国で挙兵するが失敗。その後も、中国の毛利氏のもとで信長包囲網の再構築を図るが、本能寺の変後は豊臣秀吉による天下統一の進展によって、将軍家再興は現実味を失った。自ら兵を動かすことなく信長を存亡の危機に追い込むなど、相当の策謀家であった。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

幕藩体制の確立

織豊政権

織田信長の統一事業

戦国大名のなかで全国統ーの願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長(1534〜82)であった。信長は尾張守護代の家臣であった織田信秀(1511〜52?)の子で、1555(弘治元)年に守護代を滅ぼしてその居城清洲(須)城を奪い、まもなく尾張を統ーした。ついで1560(永禄3)年尾張に侵入してきた今川義元(1519〜60)を桶狭間の戦いで破り、1567(永禄10)年には、美濃の斎藤氏を滅ぼして肥沃な濃尾平野を支配下においた(稲葉山城の戦い)。信長は、斎藤氏の居城であった美濃の稲葉山城を岐阜城と改名してここに移り、「天下布武」(天下に武を布くす)の印判を使用して、天下を自分の武力によって統ーする意志を明らかにした。翌年信長は、暗殺された前将軍足利義輝の弟で信長の力を頼ってきた足利義昭(1537〜97)を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、全国統ーの第一歩を踏み出した。しかし、信長は足利義昭の勧める管領・副将軍への任官を辞退して幕府体制から一定の距離をおき、また朝廷に対しては、荒廃した内裏の修理を進めて尊王ぶりをアピールする一方、正親町天皇(在位1557〜86)の皇子誠仁親王(1552〜86)を形式上の養子とするなどして、伝統的な権威を自らの手中におこうとした。

1573(天正元)年、信長によってしだいに権限を奪われつつあった足利義昭は、将軍権力の回復をめざして浅井・朝倉・武田の諸氏と結んで信長に反抗したが、武田軍が信玄の急死により進軍を中止したために利を失い、信長は浅井長政朝倉義景を討つとともに、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした(室町幕府の滅亡)。1575(天正3)年、信長は三河の長篠合戦で大量の鉄砲と馬防柵ばぼうさくを用いた画期的な戦法で、宿敵武田信玄の子武田勝頼(1546〜82)が率いる騎馬軍団に大勝し、翌年、近江に壮大な安土城を築き始めた。

参考

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