道鏡
宇佐八幡宮本殿(CC BY-SA 3.0, WIKIMEDIA COMMONS

道鏡


道鏡 どうきょう

?〜772 法相宗の僧。孝謙太上天皇の病を癒し、信任を得て台頭した。仲麻呂の敗死後、765年に太政大臣禅師となり、仏教政治を行う。宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年、下野薬師寺に追放された。

道鏡

?〜772 法相宗の僧。孝謙太上天皇の病を癒し、信任を得て台頭した。仲麻呂の敗死後、765年に太政大臣禅師となり、仏教政治を行う。宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年、下野薬師寺に追放された。

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律令国家の形成

平城京の時代

藤原氏の進出と政界の動揺

孝謙太上天皇が道鏡を寵愛するようになり、淳仁天皇と対立すると、押勝は危機感を募らせ、ついに764(天平宝字8)年に兵をあげた。しかし、孝謙太上天皇側の迅速な対応によって押勝は緒戦に敗れ、地盤である近江から越前に逃れようとしたが果たせず、ついに殺された(恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱))。
その後、淳仁天皇は皇位を廃されて廃帝として淡路に流され、孝謙太上天皇が再び即位して称徳天皇しょうとくてんのうとなった。

道鏡

道鏡は、河内国の弓削連ゆげのむらじ氏出身で、サンスクリットの経典研究を行い、修行に打ち込んだのち、宮中の内道場に入り禅師ぜんじとなった。
761(天平宝字5)年に孝謙太上天皇の看病に成果をあげその寵愛を得て、それが太上天皇と淳仁天皇の対立となり764年に恵美押勝の乱がおこった。
恵美押勝を倒して再即位した称徳天皇の代になると、道鏡は天皇の信任を受け、765(天平神護元)年には太政大臣禅師、翌年さらに法王となって天皇に准ずる待遇を受け、権力を握り、仏教政治に腕をふるった。この時期には、西大寺の造営や百万塔の製作など、造寺・造仏がよく行われた。
769(神護景雲3)年には、称徳天皇の意向も受けて、ついに道鏡を皇位につけようとする事件までおこった。九州の宇佐八幡神が「道鏡を皇位につけたら天下は太平となる」と告げたという道鏡即位への動きは、神意を聞く使いとなった和気清麻呂わけのきよまろの道鏡即位に反対する報告によって挫折した。和気清麻呂の背景には、藤原式家の藤原百川ふじわらももかわら道鏡に反対する貴族たちの動きが存在した。

770(宝亀元)年に称徳天皇が死去すると、天皇の新任以外に政治的基盤をもたなかった道鏡の立場は暗転する。女性天皇として皇位継承者を定めなかった称徳天皇の後継を決める群臣会議では、藤原百川らが中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇族にかわって、天智天皇の子施基皇子しきのみこの子である光仁天皇こうにんてんのうを即位させることになった。
道鏡は下野薬師寺の別当として追放され、772(宝亀3)年、同地で死去した。また、大隅に配されていた和気清麻呂は呼び戻された。
光仁天皇の時代は、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。

道鏡が登場する作品

まんが日本史をAmazon Prime Video でご覧いただけます。 9. 道鏡の野心-貴族と僧侶の争い- 8世紀の中ごろ、藤原仲麻呂は太政大臣として政権を握っていた。この頃、弓削道鏡が、僧侶として頭角をあらわし始める……

同時代の人物

安禄山 (705〜757)

唐代のソグド系の武将。大燕国初代皇帝(在位[acf field="wpcf-reign"])。 玄宗(唐)の寵臣のひとりで北辺の3節度使(范陽はんよう平盧へいろ・河東)を兼任した。楊貴妃の一族である宰相の楊国忠と対立、755年、楊国忠打倒を掲げて挙兵し、洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称したが病気となり子の安慶緒あんけいしょに殺された。

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