鄭和
鄭和の南海遠征第5次航海で甲板に穴を開けて首を通してキリンを輸送した。©Public Domain

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鄭和 A.D.1371〜A.D.1434
鄭和ていわは、明朝が雲南を征服した時連行されたイスラーム教徒。永楽帝に宦官として仕えた。靖難の役で功績をあげ、宦官の長官(太鑑)に抜擢され、7回にわたる南海遠征の指揮官となった。数百隻もの大艦隊を率い、東南アジアからアフリカ東岸まで達した。(ビジュアル百科 世界史1200人 1冊でまるわかり!

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諸地域世界の交流

海の道の発展

東アジアの海洋世界

明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝が即位した時期は、朝鮮半島では李成桂が朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満が南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝が目指した海禁朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封を受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。

朝貢国の施設であることを確認するために発給された勘合符を用いたので、勘合貿易と呼んでいる。勘合符は明から50余国に発給された。日本では諸大名、寺社、境や博多の商人が実質的に勘合貿易を担った。

南海遠征終了後も継続された海禁政策のもとで中国人の海上進出は停滞した。この間に、東シナ海交易圏と南シナ海交易圏の接点に位置する琉球王国が、明との朝貢関係を利用した中継貿易で繁栄した。

琉球が明に入貢した回数は171回におよぶ。入貢回数2位の安南は89回であり、朝鮮は30回、日本は19回であった。

首里城を中心とする琉球王国は、沖縄本島が北山・中山・南山にわかれて勢力を争っていた中の中山王・尚巴志しょうはしにより1422年に統一して成立した。以後、琉球船は東南アジア各地で活発な貿易活動を進め、港の那覇を中心として交易品を東アジアにもたらした。那覇には福建から多くの中国人が移り住んで交易活動を支えた。

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アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

靖難の役と永楽帝の治

永楽帝は積極的な対外政策を行なった。まず1410年から5回にわたり、自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征し、洪武帝が北元を滅ぼしたのちに台頭した東のタタール韃靼だったん)部や、西北のオイラト部を撃退した。
南方に対しては、ベトナムの陳朝に軍を派遣して一時的に支配した。さらに1405年以降、イスラーム教徒の宦官鄭和ていわに命じて、大規模な船団を率いて南海に大遠征を行わせた。鄭和の南海遠征は征服が目的ではなく、明の威勢を東南アジア世界に誇示するためのものであり、南海諸国の朝貢を促すことに成功した(朝貢貿易)。

北元 朝貢貿易 14世紀の東アジア 明(王朝) 明初の政治 アユタヤ朝 朝貢体制の動揺 明代のアジア(15世紀半ば) 地図
明代のアジア(15世紀半ば) 地図 ©世界の歴史まっぷ
鄭和の南海遠征

鄭和は、雲南省晋寧県昆陽の代々イスラーム教徒の家に生まれた。
本姓は馬氏。燕王(のちの永楽帝)に仕え、靖難の役で功績をあげ、内官太鑑(宦官長官)に任ぜられ、鄭和の名を賜った。
1405年〜1431年までの間、7回にわたり大艦隊を率いて南海遠征を行なった。第3次までは、東南アジア・インド何西岸などに至り、第4次以降はペルシア湾・アラビア、さらにアフリカ東岸にまで達した。鄭和もイスラーム教徒であったことから、彼はその部下をイスラーム教の聖地メッカに巡礼させたという。

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明朝の朝貢世界

鄭和の南海遠征もあって、明に対する朝貢貿易は、東アジアからインド洋にわたる広範囲にかけて活発に行われた。

マラッカ王国

14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。

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