間部詮房
間部詮房木像(作者不明/浄念寺蔵/画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

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間部詮房 まなべあきふさ( A.D.1666〜A.D.1720)

6代将軍家宣、7代将軍家継の側用人。高崎藩主。初め猿楽師であったが、1684(貞享元)年家宣に召され寵臣となる。1709(宝永6)年家宣が将軍になると、侍従となり、宝永7年高崎5万石の藩主に。新井白石とともに家宣に重用され、側用人として権力をふるった。家宣の死後も家継を擁して活躍したが、8代将軍吉宗の代になると左遷された。

間部詮房

江戸時代中期の側用人。高崎藩主。清貞の子。初め猿楽師喜多七太夫の弟子であったが、貞享1(1684)年徳川家宣に召され寵臣となり、右京と称した。宝永6(1709)年家宣が将軍になると、侍従となり、同7年高崎5万石の藩主となった。新井白石とともに家宣に重用され、側用人として権力をふるった。家宣の死後も、家継を擁して活躍したが、吉宗が将軍職を継いでからは左遷された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018

処世に通じ、小姓から大名に出世

6代将軍徳川家宣、7代将軍家継のもと、「正徳の治」と称される政治を推進したのは新井白石である。その補佐役として活躍したのが、間部詮房まなべあきふさだった。詮房は、家宣の甲府城主以来の家臣である。もともとは猿楽師であつたが、猿楽好きの家宣に召し出されて近侍となつた。人柄は温厚で、家宣の岳父がくふ近衛基熙このえもとひろは、「当時越州(詮房)賢者として、すでに肩をならぶる人なし」と日記に記している。詮房は側用人そばようにんに就任し、大名に列せられてもおごることなく、家宣によく仕えた。家宣も忠勤精励な詮房を信頼し白石とともに家宣の両輪として「正徳の治」を進めていった。白石に近い、儒学者の室鳩巣むろきゅうそうは、「詮房は無我の人で、よく老中と和している」と、政治姿勢を讃えている。

幕藩体制の展開

幕政の安定

正徳の政治

1709(宝永6)年、5代将軍綱吉が死去したあと、甥の甲府藩主であった将軍世子徳川家宣(1662〜1712)が6代将軍となった。家宣は、綱吉の政治を支えた柳沢吉保を排除し、かわって側用人間部詮房まなべあきふさ(1666〜1720)と儒者新井白石(1657〜1725)を信任して、政治の刷新をはかった。

間部詮房と新井白石

間部詮房まなべあきふさの父は甲府宰相綱重(家宣の父)に抱えられ、詮房は桜田御殿(甲府藩江戸屋敷)用人から西の丸にしたがい、家宣が将軍になると3万石の老中格になり、やがて上野国高崎城5万石が与えられた。新井白石は浪人を繰り返したのち、朱子学者木下順庵の門弟となり、木下の勧めで甲府藩主綱豊(家宣)の侍講じこうになった。西の丸・本丸へと移り、1709(宝永6)年に儒者として500石、1711(正徳元)年に1000石が与えられた。学者の俸禄は常に少ないのである。

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