鳩摩羅什
キジル石窟の鳩摩羅什像 Source Wikipedia

鳩摩羅什


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鳩摩羅什 A.D.344〜A.D.413
鳩摩羅什くまらじゅう亀茲国の西域の僧。五胡十六国時代の後秦こうしんに長安に渡来した。『中論』『大智度論』『法華経』『仏説阿弥陀経』など、35部294巻に及ぶ仏典をサンスクリットから漢訳する。

鳩摩羅什

東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

北方民族の活動と中国の分裂

魏晋南北朝の文化
仏教の受容

インドにおこった仏教は、西域をへて1世紀ころに中国に伝えられていたが、社会一般に広まったのは4世紀後半からである。とくに五胡十六国時代には、北方もしくは西方諸民族の支配のもとで、中国の伝統思想に縛られることが少なかったために、4世紀初めに西域から仏図澄ぶっとちょうが洛陽にきて布教を行い、5世紀初めには鳩摩羅什くまらじゅうが長安に迎えられて布教や経典の漢訳が進んだ。
また、経典を求めてグプタ朝時代のインドに赴いた東晋法顕ほっけんは、往きには内陸アジアを経由する陸路を、帰りにはシンハラ(セイロン)より海路を利用し、帰国後その旅行記『仏国記』(法顕伝)を著した。

この時代の仏教は、一般に国家や貴族層の保護をうけたが、北朝ではもっぱら皇帝の保護のもとで繁栄し、とくに北魏では国家仏教としてさかんになった。このため皇帝の意向によって弾圧される場合も生じることになり、5世紀初めに北魏でおこなわれた廃仏は、皇帝が道教を信仰したためであった。

仏教の受容にともない、仏像・寺院もさかんに作られるようになり、五胡十六国時代に初めて開かれた敦煌とんこう莫高窟ばっこうくつ )や北魏時代に建築が始まった雲崗石窟うんこうせっくつ龍門石窟などの巨大な石窟せっくつ寺院は、遠くインドのガンダーラ様式・グプタ様式や、中央アジア様式の影響をうけている。

石窟寺院が作られた自然環境を反映して、敦煌では粘土製の塑像そぞうと壁画によって、雲崗石窟や龍門石窟では石像や石彫レリーフによって仏教世界が表現された。

また、江南でも慧遠えおんら中国僧の布教によって、仏教は貴族層に受入れられた。中でも梁の武帝(蕭衍)(位502〜549)は熱心な仏教信者となり、建康には多くの寺院がつくられた。
晋南北朝の文化 – 世界の歴史まっぷ

仏僧の往来

インドに起こった仏教は、大きく大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)に分かれ、大乗仏教は中央アジアを経由して中国に伝わり、日本をはじめとする東アジア諸国に伝播した。また上座部仏教は、カイロを経由して東南アジア諸国に伝播した。
大乗仏教はおおよそ紀元前3世紀には中央アジアに伝播し、後漢時代の1世紀に中国に伝わっとという。中国において仏教が急速に広まったのは3世紀のの頃からで、朝鮮半島には4世紀、日本には遅くとも6世紀には伝わった。また、東南アジア方面にも5、6世紀頃までには広まった。

こうした仏教の伝播は、多くの僧侶の往来によって成し遂げられたものである。西域から中国を訪れた高僧に、仏図澄ぶっとちょう(ブドチンガ、クチャの人 ?〜348)、鳩摩羅什くまらじゅう(クマーラジーヴァ、クチャの人 344〜413)がおり、布教や仏典の翻訳に活躍した。
また代の中頃、海路によって中国にいたり、密教を大成した不空(北インドの人 705~774)などは特に名高い。中国からインドへ仏教の経典を求めて旅だった僧侶も多い。東晋法顕ほっけん(337〜422)は、陸路によってインドに赴き、海路により帰国し、帰国後『仏国記(法顕伝)』を記した。唐では、玄奘げんじょうが陸路によってインドへ行き、帰国後『大唐西域記』を口述し、義浄ぎじょうは海路によってインドに赴き、その著『南海寄帰内法伝』は名高い。東西文物の交流 諸地域世界の交流 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

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