鹿鳴館
鹿鳴館 ©世界の歴史まっぷ

鹿鳴館


鹿鳴館 ろくめいかん( A.D.1883〜A.D.1940)

東京日比谷の官営国際社交場。英人コンドルの設計、1883年竣工。井上馨の欧化政策は鹿鳴館での舞踏会に象徴され、鹿鳴館外交とも呼ばれた。民間からは厳しい非難の声が向けられ、ビゴーの痛烈な諷刺は有名。

鹿鳴館

東京日比谷の官営国際社交場。英人コンドルの設計、1883年竣工。欧化政策は鹿鳴館での舞踏会(ダンスパーティ、夜に開かれた場合は夜会とも呼ばれた)などに象徴された。そのため、鹿鳴館外交とも呼ばれ、この時代は鹿鳴館時代ともいわれた。

参考 日本史用語集―A・B共用

近代国家の成立

立憲国家の成立と日清戦争

条約改正
条約改正
条約改正のながれ図 ©世界の歴史まっぷ

井上馨いのうえかおる外務卿(のち外務大臣)は、1879(明治12)年から1887(明治20)年までその職にあり、条約改正の任にあたった。彼は法・税権の一部回復をめざして、まず1882(明治15)年に東京で列国共同の条約改正予備会議を開き、その結果に基づいて1886(明治19)年から翌年にかけて正式交渉を開始した。その案の要点は、2年以内に外国人に内地を開放し、営業活動や旅行・居住の自由を認めること(いわゆる内地雑居)、外国人判事を任用すること、西洋風の近代的諸法律を2年以内に制定することなどを条件に、領事裁判制度を廃止し、輸入税率を引き上げるというものであった。井上はこの交渉を成功させるためもあって、いわゆる欧化政策をとり、盛んに欧米の制度や風俗・習慣・生活様式などを取り入れて、その模倣につとめ、欧米諸国の関心をひこうとした。鹿鳴館では、連日のように政府の高官が内外の紳士・淑女を招待して西洋式の大舞踏会を開いたり、バザ一を行ったりした。

鹿鳴館
貴顕舞踏の略図(楊洲周延画/神戸市立博物館蔵/文化遺産オンライン

舞踏会のようす:1883年、東京日比谷に建てられた鹿鳴館(J.コンドル設計)は、外国の外務官を招いて舞踏会が開かれ、欧化政策の象徴とされた。この時期は鹿鳴館時代とよばれた。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

鹿鳴館

イギリス人コンドル( Conder, 1852〜1920)の設計によるもので、1883(明治16)年、東京日比谷内幸町に落成した。総工費は当時の金で18万円、建坪約1350㎡、煉瓦造2階建で、政府高官・内外貴顕きけんの社交場として、また政治的な会合の会場として用いられた。しかし、民間からは「鹿嗚館夜会の燭光しょっこうは天にちゅうするも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生そうせい(庶民のこと)を照すあたはず」と厳しい非難の声が向けられた。

図は、時代からあまりにもかけ離れた鹿鳴館風俗への痛烈な諷刺。同時期に来日したフランス作家P.ロチの鹿鳴館舞踏会体験の眼(『秋の日本』)とも一致している。 参考:明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界

社交界に出入りする紳士淑女(猿まね)
社交界に出入りする紳士淑女(猿まね)(ジョルジュ・ビゴー画/『トバエ』6号/明治20年5月1日)©世界の歴史まっぷ

しかし、このような改正案に対して、政府部内から激しい反対の声がおこった。国権論者の農商務大臣谷干城たにたてき(1837〜1911)は井上の改正案に反対して辞任し、フランス人法律顧問ボアソナードも改正案が日本にとって不利であることを説いた。井上はついに1887(明治20)年7月交渉の無期延期を通告してまもなく辞職したが、民間では、民権派や国権派が中心となって反政府気運が高まり、同年、三大事件建白運動がおこるにいたったのである。

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  • 1890(明治23)年、宮内省に払い下げ。華族会館が一部を使用。
  • 1894(明治27)年、明治東京地震で被災。土地・建物を華族会館に払い下げ。
  • 1898(明治31)年、コンドルが改修工事、外観変更。
  • 1927(昭和2)年、華族会館の敷地を日本徴兵保険(日本徴兵)に売却。
  • 1930(昭和5)年、敷地に日本徴兵のビル(3階建)を新築。旧鹿鳴館の建物は残されていた(内国貯金銀行も建物を使用)。
  • 1940(昭和15)年、取り壊し。
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