エドワード1世(イングランド王)
エドワード1世(イングランド王)©Public Domain

エドワード1世(イングランド王)


ヘンリー3世(イングランド王)

エドワード2世(イングランド王)

生涯

  • 1230年: ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの長男として生まれる。
  • 1254年: 1254年にカスティーリャ王・レオン王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚。カスティーリャ=レオン王国は未だイングランド王が統治権を残すフランスのアキテーヌ公領の背後に位置しており、フランス王のアキテーヌ侵攻を防ぐための政略結婚だった。
  • 1258年: 金欠の王庫に財政援助を求めるためにヘンリー3世が収集したオックスフォード議会で可決された王権を制約するオックスフォード条項(第6代レスター伯シモン・ド・モンフォール率いる諸侯により制定された国勢に関する取り決め。
    イングランド王ヘンリー3世に対して、大臣任命と地方行政権および王城の監督を管理する事になる15人の議員の手に委ねられた権力という新しい形式の政府を受け容れさせたのである。3年に1度、開催される議会では、英国議会の行動が監視される。この条項の意義は、イングランド王室が議会の権能を認知せざるを得なかったということである。オックスフォード条項 – Wikiwand)をめぐってヘンリー3世やエドワードら王権側と第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールら改革派諸侯の対立が深まる。
  • 1259年: ウェストミンスターに召集された議会でウェストミンスター条項(イングランド王ヘンリー3世及びイングランドの有力者との間で起きた政治的闘争を招いた、一連の立法による憲法的改革。
    ヘンリー3世(イングランド王)の次男エドマンド・クラウチバックがシチリア王位を継承したこと(後に撤回)、神聖ローマ帝国に対抗するために教皇を支援したこと、弟のコーンウォール伯リチャードを皇帝に立候補させたことなどが国内の教会勢力や有力者の反発を招き、ヘンリー3世は支持を失った中、オックスフォード条項により任命された24人の有力者から構成される委員により作成された政府改革計画の拡大版を作成した。遺産相続と課税に関する改革を付け加えた。)が可決。国王以上に領主裁判権をはじめとする貴族権力を制限する。
  • 1259年: ヘンリー3世とルイ9世によりパリ条約締結。ヘンリー3世が、ルイ9世に対して臣下の礼をつくす条件で、ガスコーニュとアンジューの一部を領地とすることが認められた。また、すでにジョン王のとき失っていたフランスでの領土、チャネル諸島を除くノルマンディー、メーヌ、アンジュー、アキテーヌ、ポワトゥーの請求権をヘンリーが放棄した。一方ルイ9世は、紋章からイングランドを示すサポータをはずし、イングランド王家の相続権を放棄した。(現実にはイングランド王とフランス王は対等であったが、イングランド王はフランス諸侯であるアンジュー伯を兼ねているために(同君連合)、諸侯としてフランス王の臣下となった。のち、フランスのカペー朝が断絶した際には、母系を通じての継承権を主張し、百年戦争を引き起こす原因となった。なお、イングランド王家はフランス革命戦争期の1801年までフランス王を自称し続けた。)
  • 1261年: ヘンリー3世は教皇からオックスフォード条項遵守誓約の無効を認めてもらったため、国王と諸侯の対立が深まリ、競って地方の掌握に努めるようになる。
  • 1264年: 第2次バロン戦争 - ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とするイングランド諸侯が起こした反乱。ルーイスの戦いにより反乱側が支配権を握るが、イーヴシャムの戦いでシモン・ド・モンフォールが戦死した後、王権は回復した。しかし、その精神はエドワード1世の改革やその後のイギリス議会制に引き継がれた。
  • 1266年: 内乱終結後の統治はヘンリー3世に変わりエドワード1世が主導した。改革派諸侯を破ったとはいえ、彼らの定めた立憲的原則を全否定するのは王権の不安定を招くと判断したエドワード1世は、ウェストミンスター条項に盛り込まれている諸改革案を確認する。
  • 1267年: エドワード1世は、マールバラ法で改革案を定着させる。 ウェストミンスター条項の流れを汲んで王権の抑制より貴族の権力の抑制を図るもので、領主裁判所の誤審上訴権を国王裁判所が独占する権利を定めることで内乱中に衰えた王の司法権力の回復を図った。さらに動産差押が認められる場合やその手続きも定め、当時広く社会に横行していた領主による自力救済的な差押さえを抑制した。
  • 1270年: エドワード1世は第8回十字軍に参加。
  • 1272年: ヘンリー3世崩御。エドワード1世は十字軍から帰路の途中でイングランド王位の継承を宣言する。母エレナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、ガスコーニュの安定やフランドルでの貿易問題解決のためのフランス王との交渉を続けた。
  • 1272年: エドワード1世は、臣下の礼を取るよう求めたウェールズの統治者(プリンス・オブ・ウェールズ)のルウェリン・アプ・グリフィズが招集に応じなかったため、大逆者と宣言したため、ルウェリンに領土を奪取されていたイングランドのウェールズ辺境伯たちがウェールズ侵攻を展開するようになった。
  • 1274年: イングランドへ帰国し、ウェストミンスター寺院で戴冠式を行う。内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密で安定していた。
  • 1275年: マールバラ法の差押制限を強化するため「財務府の差押手続き」を定め、公権力による差押の場合について規定しており、国王の役人による不正の排除を目的とした。
  • 1277年: エドワード1世はチェスターから1万5000人の軍勢を率いてウェールズ侵攻、攻略する。ウェールズの全面屈服のアベルコンウィ条約を締結で、ウェールズのほぼ全土を手中にしたエドワード1世は、イングランドの法を押し付けて、ケルトの法やウェールズ人の感受性を無視した統治を行った。巡回裁判制度を持ち込みエドワード1世の統治力を著しく高めたが、その過酷な統治はウェールズ人の反乱を誘発した。
  • 1282年: ウェールズの反乱を鎮めるため再度ウェールズ侵攻を行う。ルウェリンは敗死し、ウェールズ大公の地位は弟ダフィズ・アプ・グリフィズが継承したが、彼も1283年に捕らえられて大逆罪で死刑宣告され、過酷な首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑された。ウェールズの独立をかけた最後の戦いは失敗に終わり、以降ウェールズが政治的独立を手にすることは二度となかった。
  • 1285年: ウェストミンスター第二法で領主による悪意の差押に罰則を設けたり、差押を実行する代官の資格などを規定した。これらの法定は中世的な自力救済を大きく制限するのに資した。従来のさまざまな治安維持法を一つにまとめて拡張・強化したウィンチェスター法を制定する。
  • 1286年: スコットランド王アレグザンダー3世が崩御。
  • 1289年: エドワード1世は、スコットランドとバーガム条約締結する。スコットランド王位継承者である3歳のマーガレット(アレグザンダー3世の娘(ノルウェー王と結婚)の娘)と、4歳の王太子エドワードとの結婚と、スコットランド王位継承権をイングランドに移し、国境にはイングランド軍を配置する内容だった。
  • 1290年: マーガレットは戴冠も結婚もする前に死亡する。スコットランドのダンケルド家は途絶え、13人の王位請求者が現れ争った。
  • 1290年: エドワード1世は、スコットランド王位請求者で、ベイリャル卿ジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女マーガレットの孫)、アナンデール卿ロバート・ド・ブルース(デイヴィッドの次女イザベラの子)、ヘイスティングズ卿ジョン・ヘイスティングス(デイヴィッドの三女エイダの孫)(系図参照:第1次空位期王位請求者)の3人が有力候補となり、激しく対立し、内乱に発展することを恐れた聖アンドリューズ司教・ウィリアム・フレイザーから、介入を頼まれる。
  • 1290年: 再下封禁止法を制定。国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定するもので、国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることはもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になった。これは封建社会から議会制国家への移行を促す効果があった。
  • 1290年: エドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放する。
  • 1290年: 最初の王妃エレナー死亡。
  • 1291年: エドワード1世はスコットランド王位継承へ介入し、ジョン・ベイリャルを、イングランド宗主権下のスコットランド王とした。
  • 1293年: フィリップ4世(フランス王)によるアンジュー領侵攻の再開のためエドワード1世はフランス出兵を開始する。
  • 1294年: 対フランス開戦でエドワード1世がスコットランドに徴兵要求をしたことでスコットランド人の反英感情が爆発する。徴兵要求を撤回するも治らず、スコットランド王ジョン・ベイリャルはイングランド王への臣従を取り消す。
  • 1295年: スコットランドの司教や貴族から成る反英諮問機関「スコットランド王国の共同体」が創設され、国政を摂る。
  • 1295年: スコットランドとフランスの攻守同盟をパリで締結する。
  • 1295年: エドワード1世は対スコットランド、フランスとの戦費を募るための議会を招集(模範議会で招集されたのは、伯爵7人、その他封建貴族(男爵)、大司教や司教などの高位聖職者41人、修道院長や助祭長などの下級聖職者70人、各司教座聖堂参事会の聖職者代表1名、各司教管区から聖職者代表2名、各州の州騎士2人ずつ、都市や自由都市の市民代表各2名ずつである。)。膨大な軍資金を集めるためには社会各層の協力が必要との認識から、議会は各階層から広範に代表を募ったため、後のイングランド議会の代議制の模範になったという意味で19世紀の歴史家に「模範議会」と名付けられた。膨大な戦費のための課税は激しい反発を招く。
  • 1296年: エドワード1世はスコットランドへ侵攻開始し、ダンバーの戦いでスコットランド軍を撃破。ジョン王は投降しフランスとの同盟を破棄し、王位を空席にして王権をエドワード1世に譲ることを認めた。エドワード1世がスコットランド総督に任命した第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンは、スコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行った。
  • 1296年: 教会が教皇ボニファティウス8世の勅書(フランスでも全国的課税を実施し、教会にも課税したが、敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となり、教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できず、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した。)を理由に課税を拒否する。エドワード1世は教会が財政に協力しないなら、今後王権は教会の財産や聖職者の生命の保護をしない旨を宣告し、課税拒否運動の中心の聖職者たちを追放した。
  • 1297年: これまで前例が無かった、エドワード1世のフランドル出兵計画を巡って(フランドルへの騎士の出征は前例がないこと、国民が戦争で疲労していること、スコットランド情勢が緊迫していること、大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章が守られていないこと、羊毛輸出関税が異常に高いことなどを指摘。)、第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴットと第3代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンは反発し、フランドル出兵とそのための課税に反対したが、エドワード1世は独断で徴収を決定した。
  • 1297年: エドワード1世はフランドルへ出兵するが、諸侯は従わず、エドワード1世の留守を狙ってノーフォーク伯とヘレフォード伯は財務府に乗り込み、「人々の同意なく、国王が恣意的に強制賦課金や羊毛徴発することは許されない」と論じて先に国王が命じた徴税を行うことを禁じた。招集が予定されていた議会に提出する文書『強制賦課金は認めないことについて(De Tallagio non Concedendo)』の起草を開始し、エドワード1世と諸侯の関係が再び緊迫化する。
  • 1297年: スターリングブリッジの戦い – スコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行ったスコットランド総督の第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍対ウィリアム・ウォレス率いるスコットランドの中間層や民衆のスコットランド軍。 サリー伯率いるイングランド軍はウォレス軍に惨敗し、勢いに乗じたウォレス軍はイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドへ侵攻を続けた。(エドワード1世はフランドルに出兵中だった。)
  • 1297年: ウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍のスターリングブリッジの戦いの勝利とイングランド北部への侵攻の危機感からエドワード1世と諸侯は一時的に和解し、『両憲章の確認書(Confirmatio Cartarum)』(大憲章と御料林憲章の確認および再公布、先の国王の恣意的課税は前例とせず、イングランドにおける租税は全王国の共同の同意により、全王国の共通の利益のためにのみ課される原則を守ること、高い羊毛関税も廃止することが盛り込まれていた。これに基づき先のエドワード1世の恣意的課税は廃止され、議会と教会はその代わりの租税案をエドワード1世に与えた。)を結ぶ。
  • 1298年: ウォレス率いるスコットランド軍の勝利を聞いてエドワード1世はフランドルから帰国し、フォルカークの戦いでウォレス率いるスコットランド軍を撃破する。
  • 1299年: エドワード1世はフランスにおける旧領を回復してフィリップ4世と和議し、フィリップ4世の妹マーガレット・オブ・フランスと結婚する。
  • 1300年: エドワード1世はスコットランド侵攻を繰り返す。
  • 1300年: ウェストミンスターで招集された議会はエドワード1世に両憲章の全文を再確認・再公布させるとともに 『両憲章への追加条項(Articuli super Cartas)』(『両憲章への追加条項(Articuli super Cartas)』は、両憲章の違反者に対する罰則を設けるとともに、国王の役人による物資徴発に方法と手続きを規定することで、国王の徴税活動を制限した。)を新たに決議する。
  • 1301年: リンカンで招集された議会も国王に対する不信感が強い議会となった。
  • 1301年: エドワード1世はウェールズの称号を残すことでウェールズ人の反感を和らげる目的で、皇太子エドワード(後のエドワード2世)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与える。
  • 1303年: エドワード1世はスコットランド占領に成功する。
  • 1305年: エドワード1世とスコットランドの統治組織を定めた統治条例を発する。
  • 1305年: ゲリラ戦を展開したり、フランスに援軍を求めるなどエドワードへの抵抗運動を続けたウォレスが、奸計かんけいにかかってイングランド軍に逮捕され、大逆罪により首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。ウォレスに残虐刑を科すことでスコットランドを恐怖支配しようというエドワード1世の意図だったが、逆にスコットランド人の憤慨を買い、より激しい抵抗運動を招く結果となった。
  • 1305年: エドワード1世は自分が1297年の文書で行った約束は強制的に押し付けられたものだと主張し、教皇にその主張の承認を求め、翌1306年に認められた。にエドワード1世治世末は国王と諸侯の関係は悪化して、平穏さや円滑さを欠いた状態となっていた。
  • 1306年: キャリック伯ロバート・ブルースが、イングランド統治下にありながら独断でスコットランド王「ロバート1世」に即位し、エドワード1世への臣従を拒否する。
  • 1306年: エドワード1世は赤痢に苦しんでいたが、ロバート追討のためスコットランドに出陣したが、途中で崩御した。
  • 1313年: 王位を継いだ息子のエドワード2世は再度スコットランド侵攻を行うがバノックバーンの戦いで惨敗し、イングランドはスコットランドの支配権を完全に失った。
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