オランダ東インド会社 East India Company(
A.D.1602〜A.D.1799)
多数の会社が連合して形成された貿易会社。世界初の株式会社であり、東南アジアではジャワ島のバタヴィアを拠点に香辛料貿易を独占、南アフリカでもケープ植民地を築き、17世紀オランダの繁栄を支えた。18世紀、英仏の繁栄に遅れをとり、会社は内部の混乱も重なって1799年に解散。
オランダ東インド会社
多数の会社が連合して形成された貿易会社。世界初の株式会社であり、東南アジアではジャワ島のバタヴィアを拠点に香辛料貿易を独占、南アフリカでもケープ植民地を築き、17世紀オランダの繁栄を支えた。18世紀、オランダはフランスやイギリスの繁栄に遅れをとり、会社は内部の混乱も重なって1799年に解散した。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
覇権国家オランダ
独立戦争(八十年戦争)の過程で南部、特にアントウェルペンは、スペイン軍による封鎖と経済活動の中心となっていた市民の亡命によって経済活動が壊滅したが、他方、独立後のオランダは南部から亡命したカルヴァン派の商工業者などの活躍で、アムステルダムを中心に驚異的な経済発展を遂げた。1602年には連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立して、香料産地の東南アジアに進出し、アメリカにもニューネーデルラント(ニューネザーランド)などの植民地を建設した。また、奴隷貿易にも加わるなど、世界全体にその商業網を張りめぐらせた。ライデン周辺の毛織物工業やホラント州の造船業、ニシンを中心とする北海の漁業、デルフトの陶器業やマース河畔の醸造業などもさかんで、アムステルダムは世界商業の覇権を握った。特に重要であったのは、西ヨーロッパに穀物や造船資材を供給し、西ヨーロッパ諸国の生命線ともなっていたバルト海地方との貿易で他の諸国を圧倒したことである。
ヨーロッパ諸国の海外進出
オランダ東インド会社の活動
トルデシリャス条約によって、全世界を2分したポルトガルとスペインに対しては( 新大陸の発見)、16世紀末からイギリス・オランダ・フランスの3国がいろいろなかたちで異議を申し立てる。アジアを握ったポルトガルに対しても、この3国があらためて「分け前」を要求し始める。これらの国は、ポルトガルやスペインとは違って、キリスト教の伝道よりは利潤を重視した。なかでもオランダは、16世紀末、フレデリック・デ・ハウトマン(?〜1599)によるアジアへの航海が成功し、多くの企業が東インド貿易に乗りだしていたが、1602年には、これらを統合して連合東インド会社が設立された。
この会社は、本国オランダではアムステルダムの有力商人を中心に「十七人会」と呼ばれた重役会議によって運営され、会社の活動はバルト海貿易とならぶオランダの繁栄の象徴ともなった。アジアでは、香料の直接生産地にあたるインドネシアに力を注ぎ、ジャワのバンタム(現ジャカルタ)を拠点とした。ここにバタヴィア城を築き、ついで現地の支配者やアンボイナのポルトガル人と対抗しつつ、ティドール、テルナーテなどをつぎつぎと占領し、1641年には、ついにマラッカをも占領した。
こうして、香料の原産地を押さえたオランダ東インド会社は、伝統的なアジアの流通経路に入りこんだだけのポルトガルとは違って、香料をほとんど完全に独占した。この会社はまた、後続のイギリスをの他の国の会社にくらべても、圧倒的な資本力を誇ったうえ、インドネシアへの植民計画を進めた初期の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587〜1629)の活躍などもあって、その勢力はたちまち拡大した。
1623年には、イギリス人のいう「アンボイナ虐殺事件」によって、インドネシア水域からイギリス人を追放することにも成功した。
そのうえ、1652年にはアフリカ南端にケープ植民地を創設して、ヨーロッパとアジアを結ぶインド航路の主導権も握った。この地に住みついたオランダ人は、ブール(オランダ語で「農民」の意味)人と呼ばれた。
オランダ東インド会社は、インドネシアでは香料の徹底した独占をはかり、たとえば会社がみずから土地を割り当てて栽培にあたらせたり、特定の島以外のものは伐採してしまうという極端な方法をさえ採用した。しかし、オランダにとって不運だったのは、原因はいまだに明確ではないが、17世紀のうちに胡椒や香料は、ヨーロッパでそれほど人気がなくなったことである。アジアからヨーロッパにもちこまれたいわゆる「東方物産」は、17世紀後半には、胡椒や香料から綿織物・茶・コーヒーなどに重心が移った。
このような傾向は、イギリスやフランスに有利に働いた。英・仏両国はあとから進出しただけに香料諸島には入れず、インドに拠点をおくほかなかったが、そのインドこそが綿織物の生産地だったからである。しかも綿織物は、かねてアジア内でもインドネシアなどに輸出されていたのである。
この時代には、繊維産業でも、陶器業などでも、アジアの生産技術の水準がヨーロッパをはるかにこえていただけに、工業製品などの一般商品でヨーロッパからアジアに輸出できるものはほとんどなかった。このため、一貫して貴金属、とくに伝統的にアジアで評価の高かった銀が輸出されていた。その多くはもともとアメリカ産のものであったが、この時代には、日本もアメリカにつぐ貴金属の輸出国であった。その日本が1639年に鎖国政策をとり、江戸幕府によって平戸などで取引していたポルトガル人が排除されたあとは、ヨーロッパ諸国中ただ一国、貿易を認められた国として長崎(出島)での貿易で多額の銀を獲得し、それを明・清との貿易など、アジアでの活動の重要な資金とすることができたことも、オランダのアジア経営を有利にした。
アジア諸地域の動揺
南アジア・東南アジアの植民地化
諸島部の植民地化
東南アジアにおけるオランダ東インド会社の経営方針は、ポルトガルと同様に貿易独占であり、香辛料・砂糖・コーヒーなど輸出用作物の栽培・供出の強制や廉価買い上げで農民を苦しめ、しばしば彼らの反乱をまねいた。しかし会社は積極策をとり続け、18世紀半ばまでにジャワ全島の征服を完了している。しかし、その後会社は、軍事費の増大、内部の腐敗、ヨーロッパ諸勢力との競争などによって疲弊し、フランス革命軍によりオランダ本国が占領されていた1799年に倒産した。ジャワはこうしてオランダの直接統治下に入ったが、ヨーロッパでこの国と戦うイギリスは、ラッフルズ Raffles (1781〜1826) ❶ の提案を採用してジャワに侵攻し、1811年にこれを占領した(1816年に返還)。
ジャワ島住民のオランダに対する大反乱(1825〜30) ❷ のあと、1830年に東インド総督に就任したファン=デン=ボス Van den Bosch (1780〜1844)は、オランダ本国政府とバタヴィア(総督府)政庁の財政危機を救うため、強制栽培制度の拡大復活を含む統制経済を実施した。これはコーヒー・砂糖キビ・藍・タバコなどの輸出用作物を指定し耕地の一部に強制的に栽培させる制度であるが、これにより稲作が損なわれ、農民を困窮させたため、本国からも強い批判がでて、1860年代から徐々に廃止された。この間、1850年に貿易の政府独占は廃止され、自由経済が採用されたため、これ以後は私企業によるプランテーション経営が発達することになった。また植民地経営はスマトラやボルネオなどジャワ島周辺の島々にまで広げられた(オランダ領東インド)。
❶ ラッフルズ:彼は1811〜16年にジャワ島の副総督であった。1819年にわずかの住民しか住んでいなかったシンガポール島を獲得し、その後の発展の基礎を築いた。
❷ ジャワ戦争、あるいは指導者の名をとってディポネゴロ戦争と呼ばれる。
幕藩体制の展開
経済の発展
手工業の多様化
陶磁器生産の進歩は、薩摩焼のように、豊臣政権期に強制的に移入させたものを含めて、朝鮮の陶工の技術(登窯や上絵付)に負うところが大きかった。肥前では佐賀藩の保護のもとで有田(伊万里)焼・鍋島焼などの磁器がつくられ、国内だけではなくオランダ東インド会社によってヨーロッパに多数輸出された。また、尾張の瀬戸や美濃の多治見のほか各地でも陶磁器が量産され、庶民も利用するようになった。