カール4世(神聖ローマ皇帝)
カール4世(神聖ローマ皇帝)が発布した金印勅書の印章 ©Public Domain

カール4世(神聖ローマ皇帝)


フリードリヒ3世(ドイツ王)

ヴェンツェル(神聖ローマ皇帝)

生涯

出生

ルクセンブルク家の父ヨハン・フォン・ルクセンブルク(ボヘミア王)(ルクセンブルク伯)とプシェミスル家の母エリシュカ・プシェミスロヴナの血を引くチェコ人として生まれた。
政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され、ロケト城に幽閉され、その後7歳から14歳までの間はパリの宮廷に送られてそこで養育された。これは、カペー朝最後の王となるシャルル4世(フランス王)の王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの妹だった縁による。
この時の教師はフランス貴族出身のピエール・ロジェ、後のクレメンス6世(ローマ教皇)であり、カールにラテン語や神学を講じ、また帝王学を授けたといわれる。ゆきとどいた教育によって、カールは繊細で教養の高い若者に育った。また、このことは後年、カールが神聖ローマ皇帝に選出されるに際して決定的な影響をあたえる機縁となった。

イタリア遠征

1330年、カールはパリを去り、翌1331年からの2年間、父ヨハンと共にイタリア遠征をおこなった。教皇庁が1309年に南フランスのアヴィニョンに移った後(アヴィニョン捕囚)、イタリアにおいては、強力な皇帝による安定したイタリア統治を望む声が強まり、教皇派と皇帝派の対立が再燃した。
カールはイタリア遠征のなか、ミラノを牛耳るヴィスコンティ家の手の者に毒を盛られかけたり、メディチ家率いるフィレンツェ共和国との戦いを自ら指揮したりしながら、政治上ないし軍事上の経験を積み重ね、一方では、芸術家や文人たちとの親交によってルネサンス初期の人文主義に触れた。なお、「最初の人文主義者」と称されるイタリアの詩人ペトラルカは、若きカールに期待した一人であった。

王子のボヘミア統治

1333年、17歳になったカールはボヘミアに帰り、不在の父に代わってボヘミア及びその分国であるモラヴィアの経営にあたった。
1334年、モラヴィア辺境伯となる。
1340年から失明した父の代理としてボヘミアを統治。
ボヘミア王国の都プラハの小丘の上、プラハ城の城壁のなかに立地する聖ヴィート大聖堂ゴシック様式によって建設されたのは、カールの王子時代の1344年11月のことである。
大聖堂は、北フランスのアラス出身のマテュー(マティア)を招いて起工された。これにともない、従来プラハには教区の統括者としてマインツ大司教座に属する司教が置かれていたが、以後は独立した大司教(プラハ大司教座)が置かれることとなった。
王子時代における13年間におよぶボヘミア統治の経験は、父の没後の王位継承をきわめて円滑なものとした。

ボヘミア王即位

1346年、30歳となったカールは、ヴィッテルスバッハ家出身の皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)(のちのルートヴィヒ4世(神聖ローマ皇帝))と対立するクレメンス6世(ローマ教皇)によって、対立王として擁立された。
クレメンス6世はかつてのカールの師であり、ドイツ諸侯のなかにはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満を持つ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたるトリーア大司教バルドゥインらの選帝侯もまたカールをドイツ王に選出してルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。
しかしこの時、カールはドイツ各地のみならずイタリアにおいても、「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となっている。
皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をカールがすべて受け入れ、自身のドイツ王即位と引き替えに、従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった。ドイツ王としての戴冠式も、1346年にアーヘンではなくボン(ともに現ノルトライン=ヴェストファーレン州)で簡素に催された。
この年、父と共にカールはフランスへ行き、百年戦争フランス王国側に立って参戦した。ところが、父は戦争はじまって以来最大の会戦であるクレシーの戦いでフランス王太子ジャン(後のジャン2世(フランス王))の救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。

神聖ローマ皇帝即位

カールは翌1347年、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式を挙行した。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世(神聖ローマ皇帝)も死去したため、併せて正式に単独の神聖ローマ皇帝ドイツ王となった。
ドイツの選帝侯と先帝ルートヴィヒ4世とは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたドイツ王は教皇の認可を待つことなく皇帝とみなされることを取り決めていた。しかし、ドイツにおいては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カール4世は当面本拠地であるボヘミア地方を固めた。

「皇帝の都」プラハ

カール4世は、神聖ローマ皇帝となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる。
1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによって、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方ではボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環としてプラハ大学(現在のカレル大学)の設立を発令した。
ヨーロッパにおける大学はボローニャ大学が最古でパリ大学がそれに次ぎ、イングランドではオックスフォード大学・ケンブリッジ大学、さらにイタリア南部でもサレルノやナポリには創設されたが、ライン川の東側、神聖ローマ帝国の領域には大学が一つもなかった。したがって、ドイツで学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである。ドイツ語圏初の大学は、カール4世の領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった。
これにより、プラハは中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者ヤン・フスらを輩出している。プラハの旧市庁舎を建設したのもカール4世だといわれる。
1348年は、全ヨーロッパにおいては黒死病(ペスト)が猖獗しょうけつをきわめた年でもあったが、ここでカール4世はドイツにおけるユダヤ人迫害を阻むことができず、南独のニュルンベルクではユダヤ人家屋の撤去とシナゴーグ撤去後の跡地への聖母教会(現・フラウエン教会)建設の許可を与えている。
一方、彼はボヘミア王としては、拡張したプラハ新市街への移民としてユダヤ教徒を歓迎し、関係法令でも移民の筆頭としてユダヤ人を掲げており、その姿勢には二重性が認められる。いずれにせよ、この時プラハではペスト感染の症例自体が少なく、ユダヤ人に対する差別や迫害も起こっていない。
1349年、カール4世はヴィッテルスバッハ家との和解を成立させ、ようやくアーヘンでドイツ王として改めて戴冠式を挙げた。同年、モラヴィア辺境伯の地位を同母弟のヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルクに与えている。

ローマ遠征と教皇からの戴冠

カール4世は1353年、ルクセンブルク伯位を異母弟のヴェンツェル1世にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げした(ヴェンツェル1世(ルクセンブルク公))。
1354年から1355年にかけてはイタリア遠征を行い、この間ミラノでイタリア王として戴冠、さらにローマではサンピエトロ大聖堂において神聖ローマ皇帝として正式な戴冠を受け、インノケンティウス6世(ローマ教皇)との協約をむすぶことに成功した。
両者は互いに双方の主権を尊重しあうことを確約し、皇帝は教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した。戴冠は1355年4月5日のことであり、カール4世はその日のうちにローマを離れた。また、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどの諸都市からは政治的妥協の見返りとして大金を供出させた。
カール4世は、祖父・父あるいは歴代皇帝とは異なり、イタリアへの政治的介入をおこなわず、むしろドイツの平穏とボヘミアの発展に力を注いだのである。
ドイツ王権にとって、教皇庁からの自由を確保することはドイツにおける諸問題を解決していく上での前提となっており、カール4世はその確保に成功した。加えて、百年戦争におけるフランスの劣勢は、ドイツにとって西境情勢の好転を意味していた。戦争よりも外交に重きを置いたカールは、ハプスブルク、ヴィッテルスバッハ両家及び帝国諸侯らとの妥協にも成功したのである。

金印勅書

内政に力を傾注できる状況を作ったカール4世は、続いて精力的に政治改革を進めた。まず、神聖ローマ帝国の最高法規でドイツ再建案ともいうべき金印勅書(Goldne Bulle)を発布した。勅書は、1356年1月10日にはニュルンベルクの帝国議会で、同年12月25日にはメッツの帝国議会でそれぞれ承認された。これにより、大空位時代より続くドイツ域内の政治的混乱を打開しようとしたのである。

叙任権闘争以降のドイツにあっては封建化が進展し、各諸侯の自立傾向が強まって、皇帝権の衰退が著しかった。このことはまた、世襲に代わって諸侯による選挙君主制原理の台頭をみた。フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)やフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)ら歴代皇帝による帝国再興の夢は必ずしも実現しなかったが、カール4世の登場にいたってようやく、「ラントフリーデ」と称された、地域的な領邦平和令を帝国再建の基礎に据える政策が実現に移された。

金印勅書は全文31章から成っており、

  • 戴冠式はアーヘン(当時はケルン大司教区に所在)で行うこと
  • 皇帝選出に関しては教皇の認可を要件としないこと
  • 皇帝選出権を七選帝侯(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3聖職諸侯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4世俗諸侯)が掌握すること

などが定められた。

金印勅書

の発布により、選帝侯の門地や権利、選挙のあり方などが規定されて二重選挙(対立王)の可能性は消滅したものの、選帝侯には帝国の上級官職のみならず、裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権、ユダヤ人保護権など主権国家の元首のような強い権限があたえられた。
これによって帝国は安定期に入ったものの選帝侯の特権も大幅に認られて拡充されたため、ドイツの領邦の自立化はいよいよ決定的なものとなった。金印勅書は、ナポレオン戦争による1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで、450年にわたって法的効力を発揮した。

マイェスタス・カロリーナ

金印勅書の発布とほぼ同時期、カール4世は家領の中でも中核をなすボヘミアにおいて、ボヘミア王カレル1世として「マイェスタス・カロリーナ」と称する勅書を発布し、ドイツにおける金印勅書以上に国内の平和と安寧の保障者としての王権を強く打ち出そうとした。しかし、こちらはボヘミア国内の貴族の反発のため発布できなかった。

家権拡大政策の展開

上述のように、金印勅書において世俗選帝侯としてボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯が確定している。これは、おおむね既定事項を再確認したものではあったが、ここでハプスブルク家のオーストリア公国とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公国という、ボヘミアにとっては二大ライバルにあたる勢力が巧妙に除外されていることに注意を払う必要がある。これに不満を持ったハプスブルク家のルドルフ4世(オーストリア公)(カール4世の娘婿)は、勝手に自らの称号を「オーストリア大公」に格上げして対抗した。

金印勅書発布以降のカール4世は、家権拡大政策をいっそう積極的に展開して、王権の基礎の強化に力を注いだ。とりわけ本拠地であるボヘミアの経営に傾注し、鉱山の開発や交通路の整備などを行ったほか、ボヘミア王国の領域拡大にも努めている。
義父の遺領を継いでオーバーファルツ(マイセン)及びニーダーラウジッツを、アンナ・シフィドニツカとの結婚によってシレジア(シュレージエン)を併合し、さらにブランデンブルク辺境伯領をオットー5世(バイエルン公)より購入した。
1365年、カール4世はアルルにおいてブルグント王としての戴冠式を行っている。こうして、カール4世はドイツ王イタリア王ブルグント王の国王戴冠と神聖ローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝となった。同年、アンナに先立たれた後に、ポーランド王家であるピャスト家の血を引くエリーザベト・フォン・ポンメルンと再婚し、ポンメルンやポーランドなど北方への家領拡大の布石とした。

アヴィニョンにあった教皇庁は、イタリア帰還の助力をカールに要請した。詩人ペトラルカはローマの運命を案じ、イタリア半島に平和を回復するようカール4世に書簡を送ったが、カール4世は1367年から1369年にいたる再度のイタリア遠征には失敗している。

2つの都市同盟承認と治世の晩年

ハンザ同盟」の名称で知られる経済共同体は、ヴァルデマー4世(デンマーク王)がバルト海・北海を中心とする北方交易を独占しようと試みたことに対し、いくつかの都市が反発して同盟をむすんだことに端を発している。
1375年、カール4世はリューベックを盟主とするハンザ同盟の貿易独占権を承認した。同盟を構成する有力都市は他にハンブルク、ケルン、ブレーメン、ダンツィヒ(グダニスク)などがあり、最盛期には200以上の都市が加盟していた。
翌1376年、新たな「シュヴァーベン都市同盟」が結成され、カール4世はこれも許可した。この許可は、一説には帝位世襲工作の資金調達のためであったといわれている。しかし、自ら定めた金印勅書に違反しての同盟許可はドイツ諸侯を憤慨させる結果となった。
その後のカール4世は、長男ヴェンツェルにブランデンブルク辺境伯領をあたえ、1376年にドイツ王に就けて皇帝世襲を確実なものとし、次男ジギスムントとハンガリー王国の王位継承者であるマーリア(ハンガリー王女)の結婚を取りまとめて東方を固め、ハンガリー獲得の礎とした。
このころ外交においては、フランスやポーランドとの国境問題を解決し、1377年には教皇のアヴィニョン滞在に終止符を打ってグレゴリウス11世(ローマ教皇)のローマ帰還を実現させて自らの声望を高め、ドイツの国際的地位を向上させた。
カール4世はさまざまな手段を用いて確実に自家の権力を強化していた矢先の1378年11月29日、62年の生涯を閉じた。

参考 Wikipedia

広告