キャフタ条約
A.D.1727〜
清とロシアが締結した国境・通商条約。雍正帝の時代に清が外モンゴルに勢力をのばしたことに対応し、勢力範囲確認のために締結され、キャフタでの交易、北京におけるロシア正教会の設置など全11条からなる。1860年の北京条約締結まで効力をもった。
キャフタ条約
- 清とロシアが結んだ国境・通商条約。モンゴル地区における国境画定、通商規定、北京におけるロシア正教会の設置など全11条からなる。1860年の北京条約締結まで効力をもった。
- 清とロシアが締結した西部の国境を確定した条約。雍正帝の時代に清が外モンゴルに勢力をのばしたことに対応し、勢力範囲確認のために締結され、キャフタでの交易についても規定された。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝支配の拡大
三藩の乱を平定した康熙帝は、1689年、ピョートル1世(ロシア皇帝)との間にネルチンスク条約を結び、両国の国境をスタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川の線と定め、国境貿易などを取り決めた。これは清が外国と対等に締結した最初の条約で、中国東北地方全域を確保し、ロシアの南下を阻止した。一方、中央アジアの天山北路付近には、明代オイラトの後裔であるモンゴル人が住んでいたが、その中のジュンガル部に英主ガルダン・ハーンが現れて急速に強大となり、オイラト部を統一した。彼は、さらに東進して青海地方を併合し、チベット・外モンゴルをも勢力下におくなど、大勢力となった。
これに対して康熙帝はみずから大軍を率いてジュンガルの軍を破り、外モンゴルと青海地方を清領とした(1696)。さらにチベットに侵入してきたジュンガル軍を撃退し、チベットを版図におさめた(1720)。外モンゴルが清領となったことから、清はここでもロシアと国境を接することになった。そこで康熙帝のあとをついだ雍正帝は、1727年、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴル方面の国境の画定、交易場の設置などを取り決めた。さらに青海のモンゴルの反乱を鎮圧し、青海やチベットの支配を確実なものとした。つづく乾隆帝は、康熙帝・雍正帝をうわまわる大規模な外征をおこない、ジュンガル部を討ち、その支配下にあった東トルキスタンの回部を服属させ、ここを新疆(新しい土地という意味)と称した。また台湾・ベトナム・ミャンマーなどにも軍を派遣した。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
ロシアの東方進出
ロシアの東方進出
1689 | ネルチンスク条約 | ピョートル1世(露) | 康熙帝(清) |
1727 | キャフタ条約 | ピョートル2世(露) | 雍正帝(清) |
1828 | トルコマンチャーイ条約 | ニコライ1世(露) | ファトフ・アリー・シャー(カージャール朝) |
1858 | アイグン条約 | ニコライ1世(露) | 咸豊帝(清) |
1860 | 露清北京条約 | アレクサンドル2世(露) | 咸豊帝(清) |
1881 | イリ条約 | アレクサンドル2世(露) | 光緒帝(清) |
16世紀後半、イヴァン4世時代のイェルマークによるシベリア探検( ロシアの台頭)以来、ロシアは毛皮などを求めてシベリアを東進し、バイカル湖畔のイルクーツク Irkutsk (1652)など拠点となる都市を建設しつつ、17世紀前半には太平洋岸に達した。ロシアはさらにシベリアから南下して、黒竜江(アムール川 Amur )方面への進出をはかったため、黒竜江以北からモンゴル高原にかけてを領土の北端とする清朝と衝突することとなった。このため両国は1689年ピョートル1世(大帝)と康熙帝のときにネルチンスク条約 Nerchinsk を結び、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)からアルグン川を両国の国境線と定め、黒竜江流域は清の領土とすることを確認した。しかし、この条約では、モンゴル方面での両国の国境が定められておらず、また貿易問題についての解決も必要であったため、1727年、ピョートル2世と雍正帝のときにキャフタ条約を結び、アングン川よりアルタイ山脈にいたるモンゴル方面での国境線を取り決めるとともに、国境をはさむキャフタ(ロシア側)と買売城(清側)に交易場を設けて、両国間の貿易をおこなうことなどを定めた。