コンスタンティヌス1世 Constantinus A.D.272〜A.D.337
ローマ帝国テトラルキア時代西ローマ副帝(位306〜312)、正帝(位312〜324)、コンスタンティヌス朝皇帝(位324〜337)。四帝分治制崩壊後に帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。ミラノ勅令で全帝国市民の信教の自由を保障した。
コンスタンティヌス1世
四帝分治制崩壊後に帝国を再統一したローマ皇帝(在位306年〜337年)。324年単独皇帝となる。コンスタンティノープルを首都とするための基礎を築いた。職業・身分の固定化などを実行し、ソリドゥス金貨を創設して交易の安定化をはかり、官僚制を整備しドミナトゥスを強化した。一方、ミラノ勅令でキリスト教を公認し、ニケーア公会議を主催した。
キリスト教公認で「大帝」の名を得た男
13世紀のフレスコ画には、コンスタンティヌス1世がシルウェステル(ローマ教皇)に、ラテラノ宮殿を寄付する様子が描かれている。
フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスの軍団はガリアの兵士たちからなり、その多くがキリスト教信者だった。312年、ローマ郊外で宿敵マクセンティウスと退治したコンステンティヌス1世は、夢の中でキリストの十字架を見た。そこで麾下の兵士たちに、軍旗を掲げる代わりに盾に十字架を刻ませ、見事に勝利を手にしたのだった。キリストによって勝利に導かれたコンステンティヌス1世は、キリスト教を公認した最初の皇帝となった。
在位25周年の330年、都を東方ビザンティウムに移し、自らの名を冠したコンスタンティノープル(イスタンブル)を新たなキリスト教の街につくりあげた。教会や豪奢な宮殿、円形競技場など、華やかな建築物を次々と建設。キリスト教の公認と保護によってローマ帝国の体制をつくりかえ、30年以上にわたって専制君主として君臨したのだった。これらの功績から、コンスタンティヌス1世は大帝とよばれる。
オリエントと地中海世界
ローマ世界
専制ローマ帝国
コンスタンティヌス1世のときに分治体制(テトラルキア)はくずれて独裁となったが、ディオクレティアヌスの政策はそのまま受け継がれた。ただコンスタンティヌス1世は統治の宗教的基盤にはキリスト教を選び、教会を援助した。
330年に彼は黒海とエーゲ海を結ぶ海峡にあるビザンティオンを新しい首都と定め、これに自分の名を与えてコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)と呼んだ。これは、今では名目上の首都でしかなく、かつ伝統宗教の残るローマを去って、キリスト教的な首都を建設しようとする意図の現れと考えられる。彼のもとでも皇帝の専制化は進み、官僚制が発達し、国民の職業は固定化される傾向におかれた。農業小作人(コロヌス)もこの時代に法律で土地に緊縛された。ローマ帝国は完全な階層的社会となって、かつての市民の自由は失われた。
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4世紀前半、政治的に日本を統一した大和朝廷は、進んだ大陸文化を進取しようと、朝鮮半島に進出。半島南部の諸国を勢力下におさめ、北部で勢力をもつ高句麗とも戦った。