シャルル4世(フランス王)(
A.D.1294〜A.D.1328)
フランス王国カペー朝第15代(最後)王(在位1322年1月3日 - 1328年2月1日)およびナバラ王(カルロス1世)。父フィリップ4世(フランス王)と母フアナ1世(ナバラ女王)の三男。ルイ10世(フランス王)、フィリップ5世(フランス王)の弟。
シャルル4世(フランス王)
生涯
- 次兄フィリップ5世(フランス王)が息子の無いまま死去したため、フランスとナバラ王位を継承した。
- 1324年 アキテーヌを巡ってエドワード2世(イングランド王)(妹イザベラの夫)と激突、叔父のシャルル(ヴァロワ伯)の助けを得てエドワード2世に勝利、翌年にフランス優位の和睦を結ぶ。
- 1328年 イザベラとエドワード2世の子で甥のエドワード3世(イングランド王)との間で改めて和睦を結んだが、同年に死去した。息子が夭折、娘しかいなかったためカペー朝は断絶した。王位は従弟のフィリップ6世(フランス王)(シャルル(ヴァロワ伯)の子)に移り、ヴァロワ朝が開かれた。
- 1323年 パリ宮廷に送られたボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクの息子ヴェンツェルを養育した。ヴェンツェルは後にシャルル4世の名前を取ってシャルルと改名し、1346年にボヘミア王位を継承、翌1347年即位してカール4世(神聖ローマ皇帝)となった。
- 1323年 シャルル(ヴァロワ伯)を使節としてヨハネス22世(ローマ教皇)に派遣し、フィリップ5世(フランス王)が1320年に中止した十字軍の計画を再開した。しかし、ヨハネス22世がシャルル4世(フランス王)を信用せず、またシャルル4世もエドワード3世(イングランド王)との争いに忙殺されたため、交渉は頓挫した。ヴァロワ伯は翌年に亡くなる。
- 1326年 反乱を起こされている東ローマ帝国に介入しようとした。東ローマ皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスは東西教会の合同をもちかけ、ヨハネス22世も交渉に前向きだったが、アンドロニコス2世の孫アンドロニコス3世パレオロゴスの反乱が本格的になったため頓挫した。
- 1328年 シャルル4世(フランス王)が亡くなるとフランスも東ローマ帝国に介入する余裕がなくなった。
家族
- 最初の妃:ブランシュ・ド・ブルゴーニュ – ブルゴーニュ伯オトン4世の娘。1307年に結婚、1322年に離婚。1男1女をもうけたが、いずれも夭逝した。
- フィリップ(1314年 – 1322年)
- ジャンヌ(1315年 – 1320年)
- 2番目の妃:マリー・ド・リュクサンブール – ハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝)の娘で、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクの妹。1322年に結婚、1324年に死別。1男をもうけたが、出産後に母子とも死亡した。
- ルイ(1324年)
- 3番目の妃:ジャンヌ・デヴルー – ルイ・デヴルーの娘で従妹に当たる。1325年に結婚。3女をもうけ、シャルル4世の死後に生まれた末娘のみが成人に達した。
- ジャンヌ(1326年 – 1327年)
- マリー(1327年 – 1341年)
- ブランシュ・ド・フランス(オルレアン公爵夫人)(1328年 – 1382年) – ヴァロワ家のフィリップ・ド・ヴァロワ(オルレアン公)と結婚。
参考 Wikipedia
百年戦争とバラ戦争に関する系図
全体の家系図はこちら 百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図 – 世界の歴史まっぷ