ティムール朝(
A.D.1370〜A.D.1507)
チャガタイ・ハン国が東西に分裂したが、モンゴル族(チャガタイ族)のティムール(ティムール朝)がマー・ワラー・アンナフル(トランスオキシアナ)地方を統一して創設。イラン・西アジア・インド・中国へと絶えまない征服戦争をおこない、アンカラの戦いでオスマン帝国を破り、西はアナトリアから東は中国の辺境まで、北は南ロシア草原から南は北インドにいたる大帝国を樹立した。サマルカンドとヘラートを首都とする2つの政権に分裂し、ウズベク族のシャイバーン朝によって、それぞれ1500年と1507年に滅ぼされた。
ティムール朝
アジア諸地域の繁栄
トルコ世界とイラン世界
1401年にはマムルーク朝支配下のダマスクスを略奪、1402年にはアンカラの戦いでオスマン朝軍を破り、西はアナトリアから東は中国の辺境まで、北は南ロシア草原から南は北インドにいたる大帝国を樹立した。1405年彼は明朝に対する遠征の途中で病没した。勇猛果敢で、巌のごとき人物であったという。
ティムール朝の統治は、一族の間に領土を分封し、ときの実力者が君主位を継承するという遊牧国家の伝統をとった。このため広大な帝国は常に政治的に分裂し、ティムール(ティムール朝)の没後中央アジア一帯を統治することができたのは、シャー・ルフ(位1409〜1447)とアブー・サイード(ティムール朝)(位1451〜1461)の2人だけであった。アブー・サイードの死後、ティムール朝はサマルカンドとヘラートを首都とする2つの政権に分裂し、ウズベク族のシャイバーン朝によって、それぞれ1500年と1507年に滅ぼされた。
帝国は、トルコ・モンゴル系遊牧民の軍事力とイラン系定住民の経済力によって支えられ、統治機構の上でも二重の体制がとられた。遊牧民を統率するためには、名目的なモンゴルのハンを推戴する一方、徴税・財務・司法などの分野ではウラマーを官僚として採用した。
ティムール(ティムール朝)はウラマーや神秘主義教団の聖者を保護し、モンゴルの部族法(ヤサ)とともにイスラーム法を採用し、歴代君主もまたマドラサなどの宗教施設を建築し、ウラマーを保護した。民衆の間にはナクシュバンディー教団をはじめとする神秘主義教団が浸透した。ティムール朝の王族もこれに帰依し、教団は土地をはじめ多大な寄進をえて勢力を拡大した。ティムール朝の歴代君主は一族や支配下のものを従え、テントとともに移動する遊牧君主でありながらも、都市建設に積極的にかかわった。ティムールは、チンギス・ハンの侵入以降廃墟と化したサマルカンドに新たな外壁をきずき、内に内城・金曜モスク・墓廟を建設し、郊外にはみずからの滞在のための多数の庭園を建設した。シャー・ルフはヘラートにマドラサやハーンカー(修道場)を建設し、配下のアミール(部族長)らもワクフ(寄進)による宗教建設をきそった。また学芸を保護し、ウルグ・ベク(位1447〜1449)はサマルカンドに大天文台(ウルグ・ベク天文台)を建設し、自身が著名な天文学者でもあった。サマルカンドやヘラートなどでは、細密画(ミニアチュール)、ペルシア文字、チャガタイ・トルコ語文学などにたずさわる絵師や文人が集い、宮廷文化が栄えた( 文化交差路サマルカンド – 世界の歴史まっぷ)。
歴代君主
- ティムール(1370年 – 1405年)
- ハリール・スルタン(1405年 – 1409年)
- シャー・ルフ(1409年 -1447年)
- ウルグ・ベク(1447年 – 1449年)
- アブドゥッラティーフ(1449年 – 1450年)
- アブドゥッラー(ティムール朝)(1450年 – 1451年)
- アブー・サイード(ティムール朝)(1451年 – 1469年)
サマルカンド政権
- スルタン・アフマド(ティムール朝)(1469年 – 1494年、アブー・サイードの長男)
- スルタン・マフムード(1494年 – 1495年、アブー・サイードの次男)
- バイスングル(1495年 -1496年、スルタン・マフムードの長男)
- スルタン・アリー(1496年、スルタン・マフムードの次男)
- バイスングル(2回目、1497年)
- バーブル(1497年 – 1498年、後のムガル帝国初代皇帝)
- スルタン・アリー(2回目、1498年 – 1500年)
ヘラート政権
- フサイン・バイカラ(1470年 – 1506年)
- バディー・ウッザマーン、ムザッファル・フサイン(共同統治、1506年 – 1507年)
参考 Wikipedia