トトメス3世
トトメス3世 (ルクソール博物館所蔵) ©Public domain

トトメス3世


ハトシェプスト

アメンホテプ2世

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トトメス3世
エジプト第18王朝第6代王(在位前1479頃〜前1425年頃)。義母ハトシェプストが亡くなり、単独の王になるとともに対外遠征を再開。勝利を重ね古代エジプト史上最大の版図を築いた。大量の富が流入し、エジプトは空前の繁栄を示した。

トトメス3世

古代エジプトの最盛期を築く

エジプト第18王朝6代目王(在位前1479頃〜前1425年頃)。義母ハトシェプストが亡くなり、単独の王になるとともに対外遠征を再開。勝利を重ね古代エジプト史上最大の版図を築いた。大量の富が流入し、エジプトは空前の繁栄を示した。

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王墓: 王家の谷(KV34)

継母・ハトシェプストの摂政

父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握し、エジプト史上初めて実質的な最高権力を女性が握る。
ハトシェプスト時代は目立った対外遠征が行われておらず、大きな反乱もなく長い平和が続いた。この平和の中でエジプトの国力は拡大を続けており、数世紀ぶりにプント国(現在のソマリア地方)などアフリカ方面へ大規模な交易隊が派遣された。これをはじめとして貿易活動は極めて活発化し、数々の建築や芸術も花開いた。特にハトシェプストが自らのために作らせた巨大な墓、いわゆるハトシェプスト女王葬祭殿は古代エジプト建築の偉大な成果の1つである。
トトメス3世は、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごし、高い軍事的能力を身につけたと伝わる。

トトメス3世の親政

ハトシェプストの退位後はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。ことにメギドの戦いでの大勝で名高い。その積極的な外征と軍事的偉業から、「エジプトのナポレオン」と呼ばれることも多い。
実権を掌握してからはハトシェプストの存在を抹殺しており、ハトシェプストの名前や肖像を軒並み削り取った。 これには「恨みによるもの」とした説と「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」とした説がある。

古代エジプトのナポレオン

アジア方面のエジプトの覇権の危機

ハトシェプスト時代の長い平和の間に、かつてトトメス1世によってシリア・パレスチナから排除されたミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主とした対エジプト同盟を結成させてエジプトの影響力をそぎ落としにかかり、やがてカデシュ王らにパレスチナの要衝メギドを占領されシリア北部におけるエジプトの宗主権は失われてしまっていた。

メギドの戦い
年月日: 紀元前1457年(または紀元前1482年、紀元前1479年)4月16日
場所: メギド、イスラエル
結果: エジプトの勝利
交戦勢力: エジプト(トトメス3世) 対 カナーン(カデシュ、メギド、ミタンニ)連合(カデシュ王)
  • トトメス3世は単独統治開始後わずか半月でアジア遠征を開始した。
  • 進発から10日でガザに到達して町を占領した。
  • 反エジプト勢力はエジプトからメギドに向かう道を封鎖してエジプト軍を待ち構えたが、トトメス3世はカルメル山の峠道を強行突破して敵軍の虚を着き圧勝した。反エジプト諸国の軍はメギド市に撤退して篭城したが、これも7ヶ月間の包囲戦の末陥落させたのである(メギドの戦い)。
  • この勝利はエジプトのシリア・パレスチナ支配の転換点となる。トトメス3世は降伏したシリア地方の諸国に対して忠誠を誓わせたが、更にシリアに対する支配を強めるために諸王に対して王子を人質としてエジプトに送ることを定め、シリアをいくつかの管区に分けて監督官を置いた。
  • この勝利の後も、カデシュ王をはじめとしてシリア地方の諸国はしばしばエジプトに敵対的な態度を示した。トトメス3世は以後、夏が訪れるたびにアジア遠征を繰り返し、その回数は治世の終わりまでの間に17回に達している。
紀元前15世紀のオリエント諸国の地図
紀元前15世紀のオリエント諸国の地図©世界の歴史まっぷ
ミタンニ王国放逐

エジプトにとってこうしたシリア地方支配における最大の問題は同じくシリアへの勢力拡張を狙うミタンニ王国であり、支配を磐石のものとするためにはミタンニそのものを撃退する必要があった。これを企図して行われたのがトトメス3世の治世33年に行われた第8回のアジア遠征で、トトメス3世が行ったアジア遠征の中で最大の規模を持つものである。
エジプト、ミタンニ両国の軍はハラブ(アレッポ)付近で遭遇、戦闘が行われた。トトメス3世はこれに勝利し、敗走するミタンニ軍を追ってユーフラテス川に到達、更に川を超えて前進し、シリアからミタンニ軍を放逐した。

シリア支配

この勝利はシリアにおけるエジプトの権利を国際的に承認させる事に繋がった。ミタンニ以外の当時のオリエント世界の大国、ヒッタイトバビロニア(カッシート朝)がシリアにおけるエジプトの地位を承認する使者を立てた。なおシリアではカデシュを中心に反エジプトの動きがあったが、やがて完全に鎮圧された。

17回のアジア遠征によってシリア支配を確立したトトメス3世は南方に軍を転じ、ナイル川第4瀑布のナバタ地方までを征服、エジプトは史上空前の勢力を確立するに至った。
ヌビアは第二瀑布を境に下ヌビア(ワワト)と上ヌビア(クシュ)に分割され、それぞれに副総督が置かれてヌビア総督(南の異国の王子)を補佐する体制が築かれた。
以降ヌビアからは毎年300kgに達する金が貢納された。

参考 Wikipedia

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