ナポレオン=ボナパルト
ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト(ジャック=ルイ・ダヴィッド画/マルメゾン城/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ナポレオン=ボナパルト


ナポレオン=ボナパルト Napoléon Bonaparte( A.D.1769〜A.D.1821)
フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、1815)。フランス革命で頭角を現し、1799年ブリュメールのクーデタで統領政府を樹立。フランス革命の終結を宣言。ナポレオン戦争とよばれる征服戦争を展開し、1804年国民投票で皇帝に登り(ナポレオン1世)第一帝政を開いた。1812年ロシア遠征の失敗から急転し、エルバ島配流、百日天下をへてワーテルローの戦いに敗れセントヘレナ島に配流された。

ナポレオン=ボナパルト

フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、1815)。生粋のコルシカ人貴族の子。フランスで教育を受け、1785年パリ士官学校を卒業。フランス革命初期にはジャコバン・クラブ(ジャコバン派)に入会。コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し、1793年一家をあげてフランスに亡命、同1793年ニースの連隊に復帰した。この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。同1793年8月国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され、12月反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進。1796年3月イタリア遠征軍司令官となる。同1796年3月9日ジョゼフィーヌと結婚。カンポ=フォルミオ条約によってイタリアで5年間続いた戦争は収拾され、ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征、1799年11月エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと結んでブリュメール18日のクーデターを断行し執政政府を樹立、軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以後産業振興、学制改革、行政、司法の再編成などを行なった。1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが、1812年のロシア遠征の失敗によって諸国民戦争が勃発。1813年ライプチヒの戦いの敗北で没落は決定的となり、1814年5月エルバ島に流された。島を脱出し1815年3月上陸、再びヨーロッパ連合軍と対抗、ベルギーに進撃し、6月リニーでプロシア軍を撃破したが、ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ(ワーテルローの会戦、百日天下)、セントヘレナ島に流されて同地で没した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

革命の窮児

ためらいのない過激な軍師

革命勃発から6年目の10月、パリで王党派の暴動が起きた。参加者は2万から3万。ヴァンデミエールの反乱である。革命政府の国家にあたる国民公会は、軍人で「悪徳の士」と渾名された腐敗政治家ポール・バラスに鎮圧を命じる。が、手だてを持たないバラスは誰かに仕事を丸投げすることにした。思い出したのが、2年前に反革命派から港を奪う戦いで見事な働きをみせたコルシカ人、ナポレオーネ・ブオナパルテ。4年はかかる陸軍士官学校を11ヶ月で卒業したという天才である。今は名をフランス風にナポレオン・ボナパルトと変えていた。
この26歳の砲術家が選んだ武器は「葡萄団」と呼ばれる大砲用の散弾だった。空中で弾が飛散して広範囲の人を殺傷する。その残虐さゆえにルイ16世も使用を許さなかった兵器である。ナポレオンはサン・ロック教会前に暴徒を誘導し、砲を向けた。パリ市街で、暴徒とはいえ市民を葡萄弾で狙うとは、脅しにしても過激すぎる。だがナポレオンには、脅す気も、ためらいも、少しもなかった。

計算は得意:ナポレオンは数学がとても得意だった。陸軍幼年学校での数学の成績も抜群によかった。幾何学には、彼が発見したとされる「ナポレオンの定理」と呼ばれる定理がある。

戦わないナポレオンをフランスは許さない

革命は、フランスを疲弊させた。政争は絶えず汚職ははびこり、経済は悪化し民衆は飢え、一方で成り上がり者が享楽に走る。諸外国は対仏大同盟を結成し、反革命を唱えてフランスを孤立状態に追い込む。多くの者が、内憂を収め外患を払う強力なリーダーを求めていた。
ナポレンはまさにそのとき登場し、見事に暴徒を鎮めてみせた。これにより彼は将軍に昇進、名声と国内軍司令官の地位とパリの実質的な支配権を手に入れる。そのいずれに対しても、パリ市民は歓声をあげた。
国内を収めたナポレオンは、まずイタリアに遠征、オーストリアやイタリア諸勢力の軍を破って対仏大同盟を解体させる。
次いでイギリス・インド間の交易路分断を狙いエジプトに遠征。陸戦ではイギリス・オスマン帝国軍を破ったものの海上ではイギリスに敗北、第2回対仏大同盟の結成を許してしまう。
報せを受けたナポレオンは軍の大半をエジプトに残したまま帰国、クーデタで統領政府を樹立し、第一統領に就任する。
こうして政権を握ると今度はアルプスを越え北イタリアに兵を進めた。戦いでデビューし、戦いで権威を高めた彼は、戦わないナポレオンをフランスが許さないことをよく知っていた。
この遠征でオーストリアを破ると、国内の反ナポレオンの声は消えた。イギリスと和約を結ぶとヨーロッパに平和が訪れた。銀行設立と税制改革で経済を立て直し、法典を編んで国内を安定させる。終身統領に就き、ナポレオンを皇帝にという声を上げさせる。国民投票の結果、357万対600という圧倒的多数で彼は皇帝に推戴された。
1805年ナポレオンは戦争を再開する。目標はヨーロッパ支配。圧倒的な強さで欧州大陸のほとんどを支配下におくも、1812年のロシア遠征に失敗。軍を捨て、幕僚3名のみを連れ雪のなかをパリへと疾駆した。
3年後、流刑地を脱出したナポレオンは再び帝位に就く。だが列強は70万人をフランスに派兵。20万人で応じたナポレオンはワーテルローで惨敗し、百日天下の後、終焉の地、孤島セントヘレナへ流されたのである。

上司の愛人:ナポレオンの上官バラスは、愛人にしていた子持ちの未亡人をナポレオンに押しつけている。ナポレオンは6つ年上のこの女性を妻にした。それがジョゼフィーヌである。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

テルミドールのクーデタと総裁政府

王党派は総裁政府を発足直前にパリで反乱をおこした。これはナポレオン将軍に鎮圧されたが、1796年には平等主義を唱えるバフーフ Babeur (1760〜97)の総裁政府打倒の計画が発覚した(バフーフの陰謀)。左派と右派は毎年のようにクーデタをくりかえした。対外的には軍事的勝利が続いていた。フランスはオランダを征服し、1795年プロイセンと講和を結び、ナポレオン=ボナパルトのイタリア遠征の勝利でオーストリアと1797年カンポ=フォルミオの和約 Compo-Formio を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた

ブリュメールのクーデタとナポレオン

総裁政府のもとでは、インフレによる生活の圧迫の不満を背景にジャコバン派の復活がみられ、また社会的・政治的不安に乗じた王党派・右翼の台頭もあった。有産市民や農民は、混乱を収拾し、政治を安定させ、革命の成果を保証できる強力な指導者の出現を望んだ

ナポレオン=ボナパルト Napoléon Bonaparte (1769〜1821)がそのような期待を背負って登場してきた。コルシカのイタリア系の貧しい貴族の家に生まれたナポレオンは、フランスの士官学校をでて砲兵将校となったが、革命軍に加わり、その軍事的才能を認められた。テルミドールのクーデタではロベスピエールとみなされ、一時その地位を失ったが、総裁政府発足直前におこったパリの王党派の反乱を鎮圧して、総裁政府の信頼をえた。1796年のオーストリア攻略作戦では、27歳のナポレオンがイタリア方面軍事司令官に抜擢され、兵力で勝るサルデーニャ・オーストリア同盟軍を破り、1797年オーストリアに迫り、カンポ=フォルミオの和約を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた。彼の軍事的・政治的才能はここでも遺憾なく発揮された。

エジプトを征服し、イギリスのインド支配にいどむ基地とするという目的で、1798年ナポレオンはエジプト征服をおこなった。しかし、エジプトは占領したが、フランス艦隊はイギリスのネルソン Nelson (1758〜1805)艦隊にアブキール Aboukir で敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘づけにされた。1799年イギリスはオーストリア・ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、軍をエジプトにおいて、500の兵と4隻の船でフランスに戻った。

シェイエスタレーラン・・フーシェらが協力をし、クーデタ計画が練られた。1799年11月9日、革命暦ブリュメール Brumaire (霧月)18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデタを実行、総裁政府を倒し、臨時(執政)統領政府 Consular を樹立した(ブリュメールのクーデタ)。新しい憲法がつくられ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成をえた。こうしてクーデタは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握った。

1800年ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開した。ナポレオン軍はアルプスを越えて北イタリアに入り、マレンゴの戦い Marengo でオーストリア軍を破った。1801年リュネヴィル Lunéville でオーストリアとの講和が結ばれた。ピット(小ピット)内閣が倒れたイギリスとは1802年、アミアンの和約 Amiens が結ばれた。一時的ではあったが、ナポレオンはヨーロッパに戦争のない国際平和を実現させた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年宗教協約コンコルダート Concordat )を結び、フランスにカトリック復活を認め和解した。

国内秩序の回復もはかられた。1800年フランス銀行の設立や税制改革は経済を安定させ、小学校・中学校・大学までの教育制度も整えられた。レジオン=ドヌール勲章を定め、国家への貢献を表彰する制度もつくられた。しかしナポレオンの施策のなかでもっとも大きな意義をもったものが、「ナポレオン法典」の名でよばれるフランス民法典の編纂であった。私有財産の絶対性、家族の尊重、国家の世俗性・法のまえの平等などの原則を確認しているこの法典は、伝統と革命の成果を調和させ、法的に安定させたものである。この民法典は、近代化するヨーロッパ諸国の民法典のひとつの模範となった。

帝政の成立と大陸制覇

1802年終身統領となっていたナポレオンは、1804年国民投票で皇帝の地位に登り(ナポレオン1世 位1804〜14, 15)、第一帝政を開いた。ナポレオンの権力は戦争の勝利と栄光によりもたらされたものであった。この後、戦争が再開され、ナポレオンは大陸制覇へと歩みだす。

ナポレオンのエジプト遠征 ナポレオン時代のヨーロッパ地図
ナポレオン時代のヨーロッパ地図(1812年頃)©世界の歴史まっぷ

イギリスでは再びピット内閣が成立し、1805年、第3回対仏大同盟が結成された。ナポレオンはイギリス侵攻計画をたてたが、同年10月、トラファルガーの海戦 Trafalgar で、ネルソンのイギリス艦隊にフランス・スペインの連合艦隊が敗れ、計画は挫折した。陸上の戦いではナポレオンは大きな勝利をおさめた。同年12月のアウステルリッツの戦い Austerlitz では、ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を撃破し、大陸の覇権を握ることとなった。

イタリア・オランダを支配下においたナポレオンは、1806年南ドイツ、ライン右岸のドイツの16の邦をまとめてナポレオンを盟主とするライン同盟をつくらせた。オーストリア=プルスブルク家の皇帝をいただく神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。

プロイセンはナポレオンに脅威を感じ、ロシアと同盟してフランスに宣戦した。ナポレオンはイエナ・アイラウでプロイセン軍を、アイラウ・フリースランドでロシア軍を破り、1807年ティルジット Tilsit で両国に屈辱的な内容の講和を押しつけた(ティルジット条約)。とくにプロイセンは領土の半分を奪われ、莫大な賠償金と軍備制限を課せられた。ポーランドにはワルシャワ大公国がたてたれた。

ヨーロッパの大部分がナポレオンの支配下におかれた。フランス本国は88の旧県にベルギー・ルクセンブルク・ジュネーヴ・ライン左岸・ピエモンテ・ジェノヴァなどが加えられ、1810年に130県に拡大した。ナポレオンの一族が従属国の王となった。弟ルイ Louis (1778〜1846)のオランダ王、兄ジョセフ Joseph (1768〜1844)のナポリ王などである。オーストリア・プロイセン・ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌ Joséphine (1763〜1814)と離婚し、翌10年オーストリア皇女マリ=ルイズ Marie Louise (1791〜1847)をきさきに迎え、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

大陸封鎖とヨーロッパ諸国のナショナリズム

屈服しないイギリスに対し、大陸封鎖が行われた。ナポレオンは1806年のベルリン勅令(大陸封鎖令)で、大陸諸国とイギリスの貿易や通信を全面的に禁止した。イギリスおよびその植民地の商品の取り引き、それらの地域から来た船の入港も禁止された。これはイギリスに経済的圧力を加えると同時に、フランス産業資本に大陸市場を確保しようとするものでもあった。しかし、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品・工業製品を輸入しているロシア・プロイセン・オーストリアなどでは、封鎖令は国民経済を破壊するものであった。フランスの工業製品はイギリスより高く、農業国であるフランスは穀物の輸入を必要としなかったからである。また、フランスの木綿製造業をはじめとするヨーロッパの工業も、海外からの原料の輸入ができず苦しんだ。大陸封鎖はヨーロッパの経済システムを無視したものであった。

ナポレオンの征服は、自由・平等のフランス革命精神を被征服地の諸民族に広めた。自由の精神は、圧政に対する抵抗、他国の支配からの独立など、ナポレオンの支配下諸国民のナショナリズム、反ナポレオン運動を生みだした。

プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン Stein (1757〜1831)やハルデンベルク Hardenberg (1750〜1822)らが指導したさまざまな改革がおこなわれた。人身の自由を認めた農奴解放、年自治制度の改革、中央行政機構改革などである。グナイゼナウシャルンホルストが進めた軍制改革は、フランスの制度を学んだものであった。フンボルト Humboldt (1767〜1835)による教育改革もおこなわれ、ベルリン大学も創設された。戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人に対して、哲学者フィヒテ Fichte (1762〜1814)は「ドイツ国民に告ぐ」という講演でドイツ人の愛国的心情を鼓舞した。

スペインもブルボン家が追放されたあと、ナポレオンの兄ジョゼフが王となりフランスの支配下におかれた。1808年5月、首都マドリードで市民の反フランス反乱がおこった。これはフランス軍により過酷に鎮圧されたが、反乱と抵抗は地方に広がり、1814年まで根強いゲリラ活動がくりひろげられ、この「半島戦争」はナポレオンを悩ませた。

ナポレオン帝国の崩壊

ロシアのアレクサンドル1世ナポレオン1世の大陸支配を警戒と不信の目で眺めていた。大陸封鎖はロシアの穀物とイギリスの生活必需品との貿易をとめ、ロシアの農業経営を破綻させるものであった。ロシアは1812年大陸封鎖を破り、イギリスとの貿易を再開した。大陸封鎖がイギリスに打撃を与える唯一の手段と考えていたナポレオンは、ロシアの行為を無視できなかった。懲罰のため各地から60万の兵力が集められ、大陸軍が編成された。

大陸軍は1812年夏ロシアへの侵入を開始した。しかし、日制服地から徴収された兵士は、ナポレオンに対する忠誠心、フランス帝国への愛国心をもつものではなかった。

ナポレオンの大陸軍に対し、ロシア軍は戦いをさけ、ゆっくり後退を続け、ナポレオン軍をロシア本土の奥深くひきこんだ。退却に際し、ロシア軍は焦土作戦をとり、穀物や侵入軍が必要とするものを焼きはらった。1812年9月半ば、ナポレオン軍はモスクワを占領した。後退にあたってロシア軍は放火し、建物を破壊した。侵入軍は宿泊所の不足に苦しめられた。冬の到来と、長い補給路が危険にさらされることから、ナポレオンは撤退を決意した。ナポレオンのモスクワからの撤退は、軍事史上の悲劇のひとつとなった。多くの兵士がコサックの追撃と、ロシア平原の冬に倒れた。ロシアの国境までたどりついたのは、侵入した軍隊の5分の1であった。ナポレオンは軍をおき去りにし、彼の帝国を守る新しい軍隊を編成するため急ぎフランスにもどった。ロシア軍は撤退するフランス軍を追ってナポレオンの帝国に侵入した。

ナポレオンの同盟者でもあったヨーロッパの君主たちはナポレオンから離れた。イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟が結成された。ナポレオンは敵が結束する前にたたくという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月ナポレオン軍と新しい同盟軍はライプチヒ Leipzig で対戦し、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。このためナポレオンはフランスに後退した。フランスに侵入した同盟軍に対し、ナポレオンは何度か優れた戦術で戦った。しかし敗色はこく、1814年4月同盟軍はパリに入城した。彼は息子に譲位しようとしたが、認められなかった。同盟軍は彼に年金を与え、エルバ島に隠退させた。ルイ16世の弟がフランスに帰り、ルイ18世 Louis XVIII (位1814〜24)として即位し、ブルボン朝の王政が復活した(王政復古)。

ルイ18世(フランス王)は、その反動的な態度で国民の間に多くの敵をつくりだした。また、戦後の平和の秩序を討議するためウィーンに集まった列国の代表の利害は対立し、議事はまとまらなかった(ウィーン会議)。こうした情勢を知ったナポレオンはエルバ島を脱出して、1815年3月フランス南部に上陸し、支持者を加え北上した。彼を捕らえるため派遣された軍も「皇帝」に従った。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリに入ったナポレオンは再び皇帝の地位についた。「百日天下」の始まりである。ナポレオンは時をかせぎ、軍隊を再編成し、戦争に備えた。諸国は第5回対仏大同盟(数え方によっては第7回)を結成して、復活したナポレオンに対決した。1815年ベルギーのブリュッセルの南、ワーテルロー Waterloo で、ナポレオンはイギリスのウェリントン Wellington (1769〜1852)(アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)、プロイセンのブリュッヘル(ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル)と戦って敗れた(ワーテルローの戦い)。復活した皇帝の支配は短期間で終わった。

投降して来たナポレオンを、イギリスは南大西洋の孤島セントヘレナ St.Helena に送った。ナポレオンはここで1821年にその生を終えた。時をへてナポレオン伝説が生まれた。人々は彼の専制や失敗を忘れ、その栄光と業績のみを思い出した。虚栄と野心の独裁者は「よき皇帝」「革命の真の愛国者」に姿を変えた。1840年、イギリスはナポレオンの遺体をパリに帰すことを認めた。今日、その遺体はルイ14世(フランス王)がたてた廃兵院のドームに安置されている。

詩人ナポレオン

ナポレオンは軍人であると同時に詩人としてのオ能に恵まれていた。レトリックを駆使した彼の言葉や独創的な布告がそれを示す。アウステルリッツの戦いで彼が兵士に与えた言葉をみよう。
兵士に告ぐ「兵士よ、私は諸君に満足である。諸君はアウステルリッツの戦闘において、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は4時間たらずしてあるいは遮断されあるいは四散させられた。….. ロシア近衛兵の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に有名なこの日の成果である。….. 兵士よ、われわれの祖国の幸福と繁栄の確保に必要ないっさいのことが達成された暁には私は諸君をフランスにつれもどるであろう。….. そして、 諸君は〈私はアウステルリッツの戦闘に加わっていた〉といいさ
えすれば、こういう答えをうけるであろう、〈ああこの人は勇士だ!〉と」

思想家としてのナポレオン

ナポレオンは鋭い人間観察家であり、洞察力に富む風刺家でもあった。ラ=ロシュフーコを思わせる簡潔な言葉で表現されたその箴言しんげんや考察を以下に紹介する。

  • 軍隊とは服従する国民である。
  • 平和は、いろいろな国の真の利害一ーすべての国にとって名誉ある利害一ーに基礎をおいた、よくよく熟慮されたひとつのシステムの結果でなければならない。降伏でもありえず、威嚇の結果でもありえない。
  • 人間は数字のようなものである。その位置によってのみ価値を獲得する。
  • 人はその制服どおりの人間になる。
  • 愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。
  • 民衆はその意に反してこれを救わなければならない。
  • どんな生涯においても、栄光はその最後にしかない。
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ナポレオンの登場と大陸支配流れ図

47.ナポレオンの登場と大陸支配流れ図
47.ナポレオンの登場と大陸支配流れ図

ベートーヴェン

交響曲第3番変ホ長調『英雄』

フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンのナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、ナポレンを自由や人間解放の具現者と思っていたベートヴェンは、ナポレオンの皇帝に即位したことに激怒し、楽譜における「ボナパルト」の題名を消した。この交響曲はのちに「英雄」という題名で発表された。

参考 山川 詳説世界史図録

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