ハイドゥの乱( A.D.1260〜A.D.1301)
モンゴル帝国第4代モンケ・ハンが急死し、次弟のフビライ・ハンが末弟のアリクブケを破って大ハン位に即位した(モンゴル帝国帝位継承戦争)。この内紛を契機に第2代オゴタイ・ハンの孫のハイドゥがハンを自称してチャガタイ、キプチャク両王家と結んで中央アジアで挙兵し、約40年におよびフビライ・ハン率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このハイドゥの一連の行動は一般に「ハイドゥの乱」と呼ばれる。反乱はハイドゥの戦傷死まで断続的に続いた。
ハイドゥの乱
内陸アジア世界の変遷
モンゴル民族の発展
モンゴル帝国の成立
モンケが急死すると、次弟のフビライ(ハン)(位1260〜1294)が末弟のアリクブケを破って大ハン位に即位した(モンゴル帝国帝位継承戦争)。この内紛を契機にオゴタイの孫のハイドゥもハンを自称してチャガタイ、キプチャク両王家と結んで中央アジアで挙兵し、約40年におよびモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このハイドゥの一連の行動は一般に「ハイドゥの乱」と呼ばれる。反乱はハイドゥの戦傷死まで断続的に続いた。
参考 詳説世界史研究
クビライへの反逆
ハイドゥの属するオゴタイ=ハン家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユクが1248年に没すると、トルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったハイドゥは、1259年に第4代皇帝モンケが急死してその弟のフビライとアリクブケが後継者争い(モンゴル帝国帝位継承戦争)を始めるとアリクブケに与し、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求するフビライの求めを拒否した。この混乱の間にハイドゥはオゴタイ=ハン家内での権力を掌握し、1266年に西北モンゴリアにいたフビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。
フビライは、新当主ムバーラク・シャー(チャガタイ家)を母后オルガナ(チャガタイ・ハン国第4代君主)が摂政として補佐するチャガタイ家の勢力を吸収して西方の諸王家を掌握することを狙い、ムバーラク・シャーの叔父イェスン・トアの次男であったバラク(チャガタイ家の第7代当主)をチャガタイ家の本領イリに派遣した。しかし、バラクはフビライからあくまで共同統治、せいぜい補佐を命じられていたにもかかわらず、ムバーラク・シャーが年少であるのを理由に力ずくで当主位を奪い、後見すると称して服属させてしまった。こうしてバラクはイリ方面のチャガタイ家の勢力を統合すると、隣接するハイドゥの勢力を狙い、西進するようになった。
ハイドゥは西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐって争ったが、1269年に至り、バラクおよび西北ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、マー・ワラー・アンナフル領を両家で分割するとともに、共同してフビライへ反旗を翻すことを決した。
参考 Wikipedia