フェルディナンド・マゼラン(
A.D.1480〜A.D.1521)
ポルトガル人の渡航者。スペイン王カルロス1世(カール5世)の援助をうけた西回りの大航海で2年かけてフィリピンに到達。現地で戦死するが一行は出発から3年後の1522年にスペインに帰国を果たし、地球が球体であることを初めて実証した。「太平洋(静かなる海)」の名付け親。フィリピンは、スペイン国王フェリペ2世に、マゼラン海峡はマゼランにちなんで名づけられた。
フェルディナンド・マゼラン
戦死しながらも一行が初の世界一周に成功
ポルトガルの貴族出身で軍務についていたが、国王に嫌疑をかけられたため、隣国スペインの宮廷に仕えた。スペイン王カルロス1世(カール5世)の命を受けて、西回りの大航海に出発した。南アメリカ大陸を東岸に沿って南下。南端の海峡(マゼラン海峡)を通過し、太平洋を北西に向かい、出発後2年を要して現在のフィリピンに到達した。
当時フィリピン諸島にはイスラーム教の先住民がいた。キリスト教とスペイン王への貢物を強要するマゼランに多くの部族が降伏するなか、一部族が反抗。戦闘となりマゼランは戦死した。マゼランを失った一行は翌年、スペインに帰国を果たし、地球が球体であることを初めて実証した。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
マゼランと世界周航
マゼラン
ポルトガルの下級貴族出身で、モロッコ遠征の際ムーア人と取り引きして王の不興を被り、スペインに逃亡した。スペイン王カルロス1世の許可をうけて、1519年8月10日世界周航に出発し、1521年4月27日マクタン島でラプ=ラプ率いる現地人に殺害された。
ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はアフリカを回る南東の航路に加え、マゼラン海峡を回る南西航路が開かれ、地球が丸いことは実証された。トルデシリャス条約による植民地分界線は東インドにも適用されたので、この地域でスペイン・ポルトガル両国の抗争が続いた。結局、1529年サラゴサ条約で、スペインのフィリピンとポルトガルのモルッカ諸島支配を相互に承認することになった。
理論上は北米を回る北西航路、ロシアの北を回る北東航路も東洋に到達できる可能性があった。失敗には終わったが、この2つのルートの探検も試みられた。北西航路探検は、1509年のセバスチャン・カボット、フランス王の命をうけた1524年のジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(1485頃〜1528)、1534年から1536年にかけてのジャック・カルティエ(1494〜1557)、1609年、1610〜1611年のヘンリー・ハドソン(1550頃〜1611)などがおこなっている。北東航路はイギリスが開拓を試みている。1553年、ヒュー・ウイロビー(?〜1554)とリチャード・チャンセラー(?〜1556)は北東航路探検をおこなった。ウイロビーはロシアのノヴァヤゼムリャ発見後部下とともに凍死したが、チャンセラーはアルハンゲリスクからモスクワにいたり、イギリスとロシアの通商ルートを開くという貢献をすることになった。
近代ヨーロッパの成立年表
イタリア・ルネサンス(14〜16世紀) | |
1450頃 | ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明 |
1488 | バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達 |
1492 | スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了) |
クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達 | |
1494 | トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル) |
1495 | レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」制作(〜1498頃) |
1498 | ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達 |
1517 | マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表 |
1519 | フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521) |
1521 | エルナン・コルテス、アステカ帝国征服 |
イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526) | |
1524 | ドイツ農民戦争 |
1529 | オスマン軍の第一次ウィーン包囲 |
1533 | フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服 |
1534 | 国王至上法発布(イギリス国教会成立) |
イエズス会設立 | |
1541 | ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握 |
1543 | ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊 |
1545 | トリエント公会議(〜1563) |
16世紀後半、価格革命おこる | |
1555 | アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる) |
1558 | エリザベス1世の即位(〜1603) |
1559 | カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結) |