アンティパトロス朝 プトレマイオス朝 ヘレニズム時代 セレウコス朝 ディアドコイ戦争 紀元前300頃の西アジア地図
紀元前300頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

プトレマイオス朝


プトレマイオス朝 紀元前306年 – 紀元前30年
古代エジプトマケドニア系(ギリシア人)王朝。アレクサンドロス3世の死後、ヘタイロイであったプトレマイオス(マケドニア出身のマケドニア人)が創始した。首都はアレクサンドリアに置かれ、アレクサンドリアは地中海屈指の大都市・ヘレニズム文化の中心として繁栄を続けた。

プトレマイオス朝

紀元前332年、マケドニア王アレクサンドロス3世により征服される。
紀元前305年、アレクサンドロスの死後、マケドニアの将軍がプトレマイオス1世として即位(プトレマイオス朝 開始)。

プトレマイオス1世

紀元前305年 – 紀元前282年

プトレマイオス1世

ディアドコイ戦争

内政

内政において統治体制を確立し、外征においては領土を東地中海まで拡張するなどして、古代エジプトの繁栄を取り戻した。
プトレマイオス1世は、古代ギリシア語において「救済者(ソーテール)」の称号で呼ばれた。また、首都アレクサンドリアに、王立研究所(ムセイオン)とそれに併設したアレクサンドリア図書館を建設した。

また、紀元前305年、港に世界の七不思議の一つであるアレクサンドリアの大灯台(ファアロス島の大灯台)の建設も行った(完成したのはプトレマイオス2世の代)。

プトレマイオス2世

紀元前288年 – 紀元前246年
同母姉であり妻でもあるアルシノエ2世との強い結びつきのため、「兄弟(姉弟)愛」という意味のピラデルポスという異名を持つ。ヘブライ人の経典を公用語のギリシア語に翻訳させた人物であり、その翻訳は70人訳聖書と呼ばれ、現存する最古の旧約聖書の原版となった。

積極的な外征でエーゲ海の諸島を回復、また二度のシリア遠征(第一次シリア戦争、第二次シリア戦争)シリア戦争 (プトレマイオス朝)により領土を拡大し、更にアフリカとアラビアへの隊商路を確保した。さらにファイユームの地をギリシア軍の植民地として開発するに成功し、これをアルシノエ県と称した。
内政面では宰相アポロニオスにより、ギリシア人を支配階層とする官僚的中央集権国家の生産独占組織と強力な統制経済機構を布き、国富は王朝の歴史を通じ最大となった。文化面でも父の遺業を継ぎ、学士院と附属図書館に多数の学者、文人を招聘しアレクサンドリア文学の黄金時代を現出した。

プトレマイオス3世

紀元前246年-紀元前222年
恩恵王(エウエルゲテス)と称され、プトレマイオス朝の全盛時代を築いた。
キュレネ王マガスの娘ベレニケ2世と結婚し、キュレネ地方との結びつきを強化した。
姉妹でシリアのセレウコス朝に嫁いでいたベレニケ・フェルノフォラスが、夫アンティオコス2世と復縁した前妻ラオディケ1世により殺害されると、報復としてシリアへ侵攻し、第三次シリア戦争 (紀元前246年 – 紀元前241年) シリア戦争 (プトレマイオス朝)を引き起こした。シリアの首都アンティオキアを占領し、メソポタミアのセレウキアにまで到達し略奪を行なうなど大勝利を収めた後、エジプト国内での凶作・内乱を受けて帰国した。
ファイユーム地方への植民活動を奨励し、文化活動の保護・君主崇拝の強化、暦法の改革を行なうなど、内政面においても優れた統治能力を発揮した。

プトレマイオス4世

紀元前221年-紀元前205年
プトレマイオス4世の頃より国力は衰え始める。プトレマイオス4世は大酒飲みで放蕩生活を送ったと言われ、宮廷の腐敗が強まった。
即位後、奸臣ソシビオス、アガトクレスの讒言に基づき母ベレニケ2世や弟マグスを殺害した。アガトクレスの妹アガトクレアを愛人とし、廷臣たちの影響力が増大した。
紀元前219年よりセレウコス朝シリアのアンティオコス3世との第四次シリア戦争(紀元前219年-紀元前217年)シリア戦争 (プトレマイオス朝)が始まり、コイレ・シリア周辺を巡り激戦が展開された。最終的に、ラフィアの戦いにおいて、エジプト原住民を主力に取り込んだエジプト軍が勝利し、コイレ・シリア周辺の確保に成功した。ラフィアの戦いにおいて原住民が勝利に貢献した事で、支配層(マケドニア人、ギリシャ人)は原住民の重要性を認識し、以降のプトレマイオス朝は彼らへの配慮を強めざるを得なくなる。
紀元前205年頃急死し(ソシビオスらによる暗殺説もある)、王妃アルシノエ3世も殺害され、幼い子プトレマイオス5世が即位した。

プトレマイオス5世

紀元前204年 – 紀元前181年
プトレマイオス5世の即位前後の王朝の混乱に乗じた周辺の国家がエジプトを攻撃し、王朝は多くの領地を失った。また、王朝の支配下に置かれていたエジプト土着の住民の民族的自覚が高まり、各地で反乱が頻発した。プトレマイオス5世の時代から、プトレマイオス朝は衰退を始める。

プトレマイオス6世

紀元前180年 – 紀元前145年
紀元前170年、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世は第6次シリア戦争を起こし、2度に渡ってエジプトに侵攻し、紀元前168年に王位を宣言したが、ローマ元老院の承認を得られなかった。
紀元前169年から紀元前164年にかけて、エジプトでは、プトレマイオス6世、妹で后のクレオパトラ2世、弟のプトレマイオス8世による三頭政治が行われた。紀元前164年、彼は弟に国を追われ、ローマのマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスに支援を求め翌年、王位を回復した。

プトレマイオス7世

プトレマイオス7世の治世については議論が続いており、統治期間は全くなく、死後に王位が与えられただけの可能性もある。

プトレマイオス8世エウエルゲテス2世

紀元前170年にセレウコス朝のアンティオコス4世がエジプトに侵攻し、プトレマイオス6世を捕らえてシリアの傀儡としたため、それに対抗してアレキサンドリアがエウエルゲテスを王として担ぎ上げてプトレマイオス8世の治世が始まった。

プトレマイオス9世

紀元前116年-紀元前110年、紀元前109年-紀元前107年、紀元前88年-紀元前81年

プトレマイオス10世

紀元前110年 – 紀元前109年、紀元前107年 – 紀元前88年
紀元前88年、テーベで原住民の反乱が発生し、軍の維持費を賄うためにアレクサンドリアにあったアレクサンドロス3世の墓から財宝を略奪した。これが臣民の反感をかい、不人気であった王は逃亡したが殺害された。このため、兄ラテュロスが復位する事となった。

プトレマイオス11世

紀元前80年
父プトレマイオス10世がセレウコス朝と戦った際、財宝を持ちコス島へ避難するも、ローマと戦っていたポントス王ミトリダテス6世の捕虜とされる。その後、ローマへ亡命。
紀元前81年、プトレマイオス9世が死去すると、エジプトではベレニケ3世が単独で統治を行なうが、ローマのルキウス・コルネリウス・スッラの援助を取り付けたプトレマイオス11世は、プトレマイオス10世の遺志と称して帰国し、ベレニケ3世と強引に結婚し即位した(紀元前80年)。共同統治を始めた二人だったが、プトレマイオス11世は結婚の19日後に彼女を暗殺した。これに怒ったアレクサンドリア市民の暴動で彼は殺害され、プトレマイオス朝の直系は断絶した。

プトレマイオス12世

紀元前80 – 紀元前58年, 紀元前55 – 紀元前51年
プトレマイオス9世の子。
増大するローマの圧力や内政の混乱を省みず、遊楽にふけったため笛吹き王(アウレテス)と揶揄される。
自らの弟の統治するキプロスをローマに奪われ見殺しにしたことで反乱が発生し、紀元前58年に一旦退位し、ローマへ亡命した。反乱後は娘のベレニケ4世がファラオとなり、共同統治者としてプトレマイオス12世の妻クレオパトラ6世が選ばれている。

しかし紀元前55年にローマのポンペイウスとアウルス・ガビニウスらの支援を受けて復位、ベレニケ4世を処刑した。以後紀元前51年まで在位し、自らの後任としてクレオパトラ7世及びプトレマイオス13世に共同でファラオに就くよう言い遺し亡くなった。

ベレニケ4世

紀元前58年 – 紀元前55年
父はプトレマイオス12世、母はクレオパトラ5世。クレオパトラ7世の異母姉に当たる。
ベレニケ4世はセレウコス7世キビオサクテス(セレウコス朝の元君主とされる)と結婚するもまもなく殺害、ポントスの王子を自称するアルケラオスと再婚した。しかし統治は長続きせず、紀元前55年、ローマのグナエウス・ポンペイウスの意向を受けたシリア総督アウルス・ガビニウスの援助でプトレマイオス12世が帰還し、ベレニケ4世は敗北して処刑、アルケラオスも戦死した。

クレオパトラ7世

紀元前51年 – 紀元前30年8月12日
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が死亡、父の遺言とプトレマイオス朝の慣例にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就いた。

紀元前48年春、ローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世派は、このクレオパトラ7世の動きに不信を募らせ、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラ7世に対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラ7世を東部国境のペルシオンへと追いやった。ポンペイウスはファルサルスの戦いにガイウス・ユリウス・カエサルに敗北した後にエジプトに上陸したが、9月29日にプトレマイオス13世派に殺害された。

紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためにエジプト入りしたガイウス・ユリウス・カエサルと出会い、愛人となる。

プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはその時ちょうどエジプトへ到来したローマ軍を使って、紀元前47年のナイル川の戦いでプトレマイオス13世派を制圧し、プトレマイオス13世をナイル川で溺死させた。

プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治を再開した。女王は紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んだといわれる(カエサル父親説については異論もある)。プトレマイオス14世との共同統治はカエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際にはクレオパトラ7世が単独で統治していた。カエサルの傀儡政権であったともいえる。

紀元前44年にカエサルが暗殺される。

プトレマイオス14世死亡。

カエサルとの子・カエサリオンと共同統治(プトレマイオス15世)。

マルクス・アントニウスと出会い、結婚、出産。

紀元前31年、アクティウムの海戦
アントニウス派およびプトレマイオス朝の連合軍と、オクタウィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する(アクティウムの海戦)。
アントニウスは敗死。クレオパトラは自殺。

クレオパトラ7世 – 世界の歴史まっぷ

プトレマイオス13世

紀元前51年 – 紀元前47年
父の遺言により姉クレオパトラ7世と7歳でエジプトを共治。幼いプトレマイオス13世は宮廷官人に奉られ、姉を追放しエジプトを統治しようと内戦を起こす。一時は首都アレクサンドリアを掌握し姉を追放したが、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスを殺害した事でローマの介入を招き、姉を支持したガイウス・ユリウス・カエサルによって殺害される(ナイルの戦い)。

アルシノエ4世

紀元前48年 – 紀元前47年
クリオパトラを幽閉して実権を握ったプトレマイオス13世は、紀元前48年9月、ガイウス・ユリウス・カエサルがグナエウス・ポンペイウスを追ってエジプトへ来た際にクレオパトラはカエサルと同盟関係を結び、プトレマイオス13世と争う姿勢を見せた。
カエサルは姉弟の共同統治に復するよう裁定したが、プトレマイオス側はこれを不服としてカエサル軍と対立。アルシノエはプトレマイオスに与し、クレオパトラと争った。紀元前47年のナイルの戦いでプトレマイオスは敗死し、アルシノエは捕虜となった。
紀元前46年8月にローマ市で行われたカエサルの凱旋式で、アルシノエは市中を引き回されたが、カエサルの意向により死刑を免れ、クレオパトラの脅威とならないようエフェソスの居宅に幽閉された。
紀元前44年3月のカエサル暗殺を機にマルクス・アントニウスが実権を握ると、クレオパトラの意向を受けたアントニウス派の手によってアルシノエは殺害された。

プトレマイオス14世

紀元前47年 – 紀元前44年
クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の弟。

プトレマイオス15世(カエサリオン)

共和政ローマの将軍ユリウス・カエサルとクレオパトラ7世の子(異説あり)。
カエサルの死後、母クレオパトラ7世とエジプトを共同統治していたプトレマイオス14世が紀元前44年に死去すると、プトレマイオス15世となった。
紀元前30年のクレオパトラ7世の死後、オクタウィアヌスに捕らえられて殺害され、プトレマイオス朝は滅亡した。クレオパトラがマルクス・アントニウスともうけていたクレオパトラ・セレネなど、子供たち3人は、アントニウスの前妻である小オクタウィアに預けられ、ローマでオクタウィアヌスの親戚として厚遇された。カエサリオンはオクタウィアヌスと同じく「カエサルの後継者である」可能性を持つため殺害されたのだと見られる。

紀元前30年、クレオパトラ7世自殺後、エジプトはローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなる。

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