即位
- 1127年 父・ヘンリー1世(イングランド王)は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に先立たれた娘の女帝モードを、従来敵対していたアンジュー家を味方にし女帝モード(マティルダ)の立場を強化するため、有力フランス貴族のアンジュー伯・ジョフロワ4世と再婚させる。→イングランド及びノルマンディー諸侯の反感を買う。
- 1135年 ヘンリー1世は女帝モードを後継者に定めて死去。
- 1135年 スティーヴン(ヘンリー1世の姉の子・系図参照)は、ヘンリー1世が死ぬ間際に自らを後継者に指名したと主張。フランク王国のサリカ法(フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。サリカ法の相続条項を拡大解釈して女王及び女系継承を禁じたフランス王国の王位継承法)も利用し、さらに弟のウィンチェスター司教・ヘンリーの協力で教会の支持を受けて女帝モードの誓いを無効とする。
- 1135年 スティーヴンは、イングランド王に即位する。→無政府時代の開始
無政府時代 (ブロワ朝)
イングランド王国が内乱に明け暮れたブロワ朝、スティーブン王の治世(1135年 – 1154年)を指す。
イングランド及びノルマンディー諸侯は、イングランドで初めての女王に対する抵抗感と、ノルマンディーの代々の宿敵であるアンジュー伯に対する警戒心から、スティーブンの即位を支持した。これをブロワ朝(Blesevin dynasty)と呼ぶ。(歴史書によってはノルマン朝の一部とする)
女帝モードは契約違反をローマ教皇に訴えたが、教皇とカンタベリー大司教は却下し、スティーヴン(イングランド王)を支持した。
- 1128年 女帝モードの叔父・スコットランド王・デイヴィッド1世もスタンダードの戦いに敗れる。
- 1141年 女帝モードの庶兄・グロスター伯・ロバートがスティーブン(イングランド王)への忠誠を放棄し、女帝モードの支持派の重鎮として活躍し、リンカーンの戦いで勝利しスティーブンを捕虜とする。
- ウィンチェスター司教・ヘンリーもスティーブンへの支持を取り消す。
- 女帝モードはロンドンに入り、「イングランド人の女主人」と称するが、傲慢な態度が反感を呼びオックスフォードに撤退する。
- 1142年 スティーブンの妻・マティルドは、傭兵を率いて抗戦し、グロスター伯・ロバートを捕虜としたため、捕虜だったスティーブンとロバートを捕虜交換する。
- スティーブンは開放され王位に戻る。
- 1144年 女帝モードの夫・アンジュー伯・ジョフロワはノルマンディー攻略に専念し、ノルマンディー公を称する。
- 1147年 グロスター伯ロバート死去。女帝モードはアンジューへ帰る。
- 1149年 ヘンリー2世は何度かイングランドに渡ってスティーヴン側と戦い、いずれも短期間で戦況に影響は与えなかったがマティルダ派に希望を与えた。
- 1150年 ヘンリー2世はノルマンディー公位を受け継ぐ。
- 1151年 アンジュー伯・ジョフロワ死去。ヘンリー2世はアンジュー伯領を受け継ぐ。
- 1152年 ヘンリー2世は、ルイ7世(フランス王)の王妃だった11歳年上のアリエノール・ダキテーヌと結婚し、アキテーヌ公領の共同統治者となる。
- 1153年 スティーブンの嫡男ブローニュ伯・ウスタシュ4世が原因不明で急死し、気力を失ったスティーブンは、女帝モードの息子アンリとウォーリングフォードで和平協定を結び、自身の王位承認と引き換えにアンリを王位継承者とする。
- 1154年 スティーブン死去。協定に従いアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立する。
※スティーブンにはもう1人ギヨーム(ウィリアム)がいるにもかかわらず、アンジュー伯アンリを後継者としたため、アンリは実はスティーブンの子ではないかと噂が立った。実際、王位継承問題が起こるまでは、モードは夫のジョフロワとは仲が悪かった反面、従兄のスティーブンとは仲が良かったらしい。
プランタジネット朝
ヘンリー2世
ヘンリー2世は、長い内戦(無政府時代)で疲弊していたイングランドを安定させると、さらなる勢力拡大を図った。
スコットランド
北方では、スコットランド王マルカム4世を屈服させ、ノーサンバーランドとカンバーランドを領有した。
1174年には、息子たちとの内乱に乗じてノーサンバーランドへ攻め込んできたウィリアム1世(マルカム4世の弟)も破り、ファレーズ協定でスコットランドのイングランドへの臣従などイングランド優位の項目を取り決めた。
ウェールズ
西方では、スティーヴン(イングランド王)時代(無政府時代)に失われたウェールズの支配を復活させた。
アイルランド
アイルランドに関しては、アイルランドでケルズ教会会議が開かれた3年後の1155年、イングランド出身の唯一のローマ教皇、ハドリアヌス4世が”Laudabiliter(ラウダビリテル)”と題する教皇勅書を発し、ヘンリー2世に対してアイルランド攻撃を許可し、アイルランド全島の教化を命じたと伝わるが、この勅書の信憑性については疑問も持たれている。ヘンリー2世はアイルランドへの植民を進め、ローマ教会との交渉でその宗主権を認められ、1171年、「アイルランド卿」の称号を入手した。
フランス
フランスではルイ7世との抗争を続けながら、四男のジョフロワ(ジェフリー)の婚姻によりブルターニュ公領を支配下に置き、さらにトゥールーズ伯に対してアキテーヌ公の宗主権を主張して、これを臣従させた。
これらは後に「アンジュー帝国」と通称されるようになる。ただし、この「帝国」はヘンリー2世が個人として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、統合性は名実ともに備わっておらず、一円的な領域支配からは遠かった。そのため、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
ヘンリー2世はさらに、次男の若ヘンリーをルイ7世の娘マルグリットと結婚させて、当時世嗣がいなかったフランス王位もねらったが、これはのちにフィリップ2世が誕生したため果たせなかった。
また、ヘンリー2世には娘が3人いたが、長女マティルダ(モード)はザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ(獅子公)に、次女エリナーはカスティーリャ王アルフォンソ8世に、三女ジョーンはシチリア王グリエルモ2世に嫁がせ(夫と死別後トゥールーズ伯レーモン6世と再婚)、これらと結んでのフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)・赤髭王に対抗した。
こうして、征服王ウィリアム1世(ノルマン朝初代王)によって始められた中世イングランドの基礎づけは、またしてもフランス出身のヘンリー2世によって大成されることとなった。
子女
- ウィリアム(1153年 – 1156年) – ポワチエ伯
- ヘンリー(1155年 – 1183年) – イングランド王(父と共治・若ヘンリー)
- マチルダ(1156年 – 1189年) – ザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ獅子公妃
- リチャード(1157年 – 1199年) – イングランド王(獅子心王)
- ジェフリー(1158年 – 1186年) – ブルターニュ公ジョフロワ2世
- エレノア(1162年 – 1215年) – カスティーリャ王アルフォンソ8世妃
- ジョーン(1165年 – 1199年) – シチリア王グリエルモ2世妃、後にトゥールーズ伯レーモン6世妃
- ジョン(1167年 – 1216年) – イングランド王(欠地王)
他に、庶子としてジョフロワ(1152年以前 – 1212年) – ヨーク大司教
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1150年頃 アンジュー帝国の拡大 地図 – 世界の歴史まっぷ
アンジュー帝国
プランタジネット家(アンジュー家)によって統治された領域の通称。正式な国号ではないが、12世紀から13世紀にかけてプランタジネット家が統治した、ピレネー山脈からアイルランドに至る広大な領土は後世に帝国と形容された。プランタジネット家は最盛期にはフランス王国の半分、イングランド王国全土、アイルランド全土(名目上)に勢力を拡張した。
しかし、フィリップ2世(フランス国王)との抗争に敗れたことにより、アンジュー、ノルマンディー等のヨーロッパ大陸の領土の大半を喪失した。この敗北によって、プランタジネット家が大陸に保有する領土はガスコーニュのみとなり、百年戦争の遠因となった。
内政
ヘンリー2世(イングランド王)は即位すると諸侯に命じ、内戦時代(無政府時代)に築かれた城砦を破棄させ、不当に奪った領土を返還させてヘンリー1世時代の諸権利を回復させた。
戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、巡回裁判官を各地に派遣して地方の行政を監視させ、起訴陪審制を定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。
現在に続くイギリスの諸制度の多くは、この時代に整えられたものだといわれている。ヘンリー2世統治のもとで、イギリス独特の議会制度の淵源となる、いわば強制的自治と形容すべき、封建的な諸勢力からの干渉を廃した王権に直属した地方自治制度の大枠が形づくられ、イングランド全土に適用されるコモン・ローが整えられたのである。
ヘンリー2世がイングランド王室紋章にライオン1頭を採用し、リチャード1世が3頭に増やしたといわれている。(右図参照)
ノルマン・コンクエスト以来、歴代イングランド王は同時にノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめくヨーロッパ大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居住していることが多く、ノルマンディーのルーアンが実質的な首都だった。
大陸に比べ領土が確定し、比較的安定した統治が見込まれるイングランドは、軍事・財政面で大陸経営を支える役割を担っていたが、イングランド貴族の多くは軍役免除金(スクテージ)を支払って大陸での従軍から逃れることを望んだ。これは、のちに独立性の強いジェントリ(郷紳)と呼ばれる階層が発生する原因にもなった。
トマス・ベケット殺害事件
カンタベリー大司教・トマス・ベケットは、ヘンリー2世の信頼と愛顧を一身に集めた腹心であり、また、息子のヘンリー(若ヘンリー)の家庭教師を任せた友人でもあった。
ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとし、また、政教関係の難しい調整を期待して、かつて大法官としてトマス・ベケットを1162年にイギリスの総司教座につかせたが、大司教となったトマス・ベケットは教会の自由を唱え、ことあるごとにヘンリー2世と対立した。
ヘンリー2世は、裁判制度の整備を進める上でクラレンドン法を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否し、ベケットは1164年、国外追放に処せられた。
1170年、イングランドに帰国したベケットは、親国王派の司教たちを解任した。ノルマンディーに滞在していたヘンリー2世は激怒し、その意を汲んだ4人の騎士は国王が大司教暗殺を望んでいると誤解して、カンタベリー大聖堂においてヘンリー2世に無断でベケットを暗殺した。
人々はベケットを殉教者と見なし、ローマ教会は即座にベケットを列聖した。
ヘンリー2世の立場は悪くなり、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額ずき懺悔をするとともに、ローマ教皇に降伏しなければならなくなった。この事件は、ローマ教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反まで招いた。
十字軍
トマス・ベケット殺害に対する懺悔として、ヘンリー2世(イングランド王)は十字軍遠征を約束し、当面の資金援助としてテンプル騎士団に騎士200人分の費用を提供した。
1185年、サラディンの重圧の前に風前のともし火であったイェルサレム王国から救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにもやってきた。イェルサレム国王・ボードゥアン4世はアンジュー家の分家出身で、ヘンリー2世(イングランド王)の従弟(上図参照)にあたるが、病気のため子供がおらず、ヘンリー2世に十字軍従軍とイェルサレム王位継承を要請した。しかし、ヘンリー2世は人員と資金の提供は承知したが従軍の約束はしなかった。
1187年のハッティンの戦いの後、イェルサレムは陥落し、ヨーロッパでは第3回十字軍が勧誘された。三男のリチャード(後のリチャード1世(イングランド王))は即座に参加を希望したが、ヘンリー2世(イングランド王)とフィリップ2世(フランス王)はお互いに牽制し合い、まず協定を決めることから始めなければならなかった。ヨーロッパ中でサラディン税が徴収されたが、ヘンリー2世は結局聖地には向かわなかった。
息子たちの反乱
ヘンリー2世(イングランド王)と王妃アリエノールとの間には、早世したウィリアム(1153年 – 1156年)の他、若ヘンリー(アンリ、1155年生)、リチャード(リシャール、1157年生)、ジェフリー(ジョフロワ、1158年生)、ジョン(ジャン、1167年)の4人の息子がいた。彼ら息子たちのうち、一人として父を裏切らない者はいなかった。
1169年、ヘンリー2世(イングランド王)はルイ7世(フランス王)の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョン(後のジョン(イングランド王)・欠地王)は、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが、支配できずに逃げ帰っている)。
1169年のフランスとの協約に従い、ルイ7世(フランス王)の娘婿でもある若ヘンリーは1170年に共同王として戴冠するが実権はなく、父に対して不満を抱いていた。特に自身の教育係だったトマス・ベケット暗殺事件で父に対する不信感はさらに強まり、加えて父のジョンへの偏愛にも怒っていた。当時30代だったヘンリー2世は息子への領地の分配を単に名目上のものと考えていたが、実際は息子たちがルイ7世(フランス王)に臣従したことにより、大陸側の領土の宗主はフランス王であるという事態が生じてしまった。1173年、若ヘンリーは敬愛したベケット同様、父の支配を逃れるべくルイ7世のもとへと走り、ヘンリー2世と不仲になった母アリエノールやリチャード、ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こす。戦いは序盤以降はヘンリー2世が優勢で、翌1174年には両者は和解した。しかし、彼らの母アリエノールだけは以後十数年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いられることになった。
ヘンリー2世(イングランド王)は若ヘンリーらを許し、両者のあいだで和解が成立したが、その後も若ヘンリーに君主としての実権がない状況に変化はなかった。ルイ7世(フランス王)は1180年に死去し、1182年にヘンリー2世はようやく若ヘンリーに君主としての権限を与えるべく、アキテーヌ公リチャードとブルターニュ公ジェフリーに対し、若ヘンリーへの臣従礼をとらせようとした。ところが、ジェフリーは最終的には従ったが、リチャード(後のリチャード1世(イングランド王))は若ヘンリーへの臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため若ヘンリーとジェフリーがリチャード(後のリチャード1世(イングランド王))を攻撃する騒ぎになった。1183年に若ヘンリーは病死し、リチャードがヘンリー2世の後継者となった。
リチャードは、母アリエノールの気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、ヘンリー2世死後にイングランド王となってからは戦争に明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であった。リチャードは、父からアキテーヌ公位を末弟のジョン(後のジョン(イングランド王)・欠地王)に譲るように命じられると、これを拒絶した。一方、ジェフリーは父ヘンリー2世から離れ、ルイ7世(フランス王)の後を継いだフィリップ2世(フランス王)・尊厳王のもとへ身を寄せ、1186年、パリでフィリップ2世が開催した馬上槍試合での怪我がもとで急死した。
失意の最後
1188年にヘンリー2世(イングランド王)とフィリップ2世(フランス王)の争いのさなかの和平交渉中、リチャード(後のリチャード1世(イングランド王))は父の前でフィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)をし、公然と父との敵対を宣言した。翌1189年の戦いの中、ル・マンにたてこもったヘンリー2世はリチャードとフィリップ2世の追跡をかわそうと郊外に火を放つが、炎は市街へと燃え広がり、自身の生まれた街は焦土と化した。すでに健康を害していたヘンリー2世は精神的ショックに耐えられず、シノン城に撤退し、さらに寝返った者の名簿の先頭に最愛の息子ジョン(後のジョン(イングランド王)・欠地王)の名があるのを見て最後の気力を失い、まもなく亡くなった。56歳没。
最期を看取ったのは、忠臣ウィリアム・マーシャルなど供回りの者と、息子の中では庶子で僧籍にあったジョフロワ(1152年以前 – 1212年)だけであった。遺体はシノン近郊のフォントヴロー修道院に安置された。なお、父ヘンリーの最期を看取ったジョフロワは、1189年、イングランド王となったリチャード1世によってヨーク大司教に任ぜられた。