ペリクレス Perikles B.C.495〜B.C.429
アテネ全盛期の政治家。15年連続で将軍に選出され、アテネを指導し、古代民主政を完成させた。弁舌に優れ、特にペロポネソス戦争の戦没者追悼演説が有名。デロス同盟の資金を流用してパルテノン神殿を再構築したとされる。ペロポネソス戦争中に病死し、その後アテネはデマゴーゴスによる混迷の時代を迎える。
アテネの黄金時代を築く
ペリクレス
アテネ全盛期の政治家。15年連続で将軍に選出され、アテネを指導し、古代民主政を完成させた。弁舌に優れ、特にペロポネソス戦争の戦没者追悼演説が有名。デロス同盟の資金を流用してパルテノン神殿を再構築したとされる。ペロポネソス戦争中に病死し、その後アテネはデマゴーゴスによる混迷の時代を迎える。
アテネの黄金時代を築く
ペリクレスは、アテネの民主政を確立させるとともに、黄金期をつくりあげた。それ以前、アテネでは名門貴族による支配の維持を目指す寡頭派と民主派との争いが続いていた。ペリクレスは後者の指導者となると、寡頭派を打倒して民主派を勝利に導き、事実上の国家元首の座に就く。ついでデロス同盟というエーゲ海域のギリシア人諸ポリスによる対ペルシア攻守同盟を、アテネを頂点とする帝国へ再編しようと画策。しかし、これにスパルタを中心とするペロポネソス同盟が反発したことから大戦争が勃発する(ペロポネソス戦争)。狙いどおり長期戦にもちこむが、疫病に倒れ、帰らぬ人となった。
略年表
- 紀元前495年頃 誕生
- 紀元前448年 ペルシアと「カリアスの和約」が結ばれる
- 紀元前447年 パルテノン神殿建設開始
- 紀元前446年 スパルタと和約を締結
- 紀元前443年 将軍職に就く(紀元前429年まで連続)
- 紀元前431年 スパルタとのペロポネソス戦争始まる
- 紀元前429年 死去
アテネの黄金期を創る
アテネの政治家。ペルシアの侵攻に備え各ポリス(都市国家)が拠出したデロス同盟の資金を流用し、民衆の懐柔と海軍の増強にあてた。スパルタとペルシア各国と和約を締結。パルテノン神殿などを建築、学芸も奨励し、黄金期を築く。アテネの民主政を完成させ「ペリクレス時代」をつくった。スパルタを中心としたペロポネソス同盟と戦ったペロポネソス戦争で衝突中、ペストで落命。
オリエントと地中海世界
ギリシア世界
アテネ民主政
ペリクレスはその公的生涯のほとんどの間、この将軍の地位にあって国政を指導したのである。彼はペルシアの侵入で破壊されたアクロポリスの再建に努め、フェイディアスらの建築家が協力してパルテノン神殿やエレクテイオン神殿などの美しい神殿が建設された。宗教祭典も華やかに催され、悲劇の上演がさかんになった。市民には観劇手当も支給された。このようにペリクレスの時代、アテネは都市の外観も民主政の体制も絶頂期に達したが、そのためにはデロス同盟の多額の資金が費やされたのである。
アテネの民主政は他のポリスにも波及したが、それはもちろん今日の民主政治とは異なり、直接民主政で政党はなく、なによりも成人男性市民のみにしか参政権が認められていなかった点で特徴的である。女性と奴隷は政治から排除されていたし、ポリスに居住する外国人(メトイコイ)は参政権はもちろん不動産所有すら禁じられていた。しかもペリクレスの時代(紀元前450年ころ)に制定された市民権法は、両親がアテネ市民もしくはアテネ人女性でない限り市民権を所有できないと定めていた。内において徹底した民主政を実現したアテネは、市民以外の人々や他のポリスに対してはきわめて排他的な姿勢を示していたのである。
ペロポネソス戦争とポリスの没落
はじめアテネは、ペリクレスの指導のもとに優勢であったが、田園への攻撃を逃れて市民を城壁へ籠城させる作戦をとったため疫病に襲われ、人口の3分の1を失い、ペリクレスも病死した。その後も一進一退の戦いが続き、ペルシアも介入して対立をあおった。アテネの政治をリードしたのは富裕な商人や手工業の政治家で、彼らは好戦的な民衆に迎合し、いたずらに戦争を長期化させた。彼らをデマゴーゴス(扇動政治家)と呼び、クレオンやアニュトスなどがそれであった。また貴族のアルキビアデスは無謀なシチリア遠征を提案して、アテネ軍がシチリアで全滅する事態になってついにペロポネソス側が勝利した。