ホラズム・シャー朝 (1077年〜1231年)
成立: 1077年
自立: 1157年
モンゴル帝国により事実上崩壊: 1219年
滅亡: 1231年
ホラズム・シャー朝
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
中央アジアのトルコ化
カラハン朝は西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラームへ改宗し、またサーマーン朝でも軍事・政治の実権はしだいにトルコ系軍人の手に移っていった。
10世紀半ば過ぎ、サーマーン朝のマムルーク出身の武将アルプテギーンがアフガニスタンに自立してガズナ朝の基を築いたのはこうした状況下のことである。やがてガズナ朝とカラハン朝が滅亡すると、中央アジア一帯のトルコ系の波はさらに加速した。
東西に伸びる中央アジアのオアシス地帯がペルシア語で「トルコ人の地」を意味するトルキスタンと呼ばれるようになるのは、こうした事情による。トルキスタンは、一般にパミール高原を境に、西方の西トルキスタンと東方の東トルキスタンに大別される。
こうした中央アジアのトルコ化・イスラーム化という趨勢は、11世紀以降さらに周辺へと拡大し、西方ではトルコ系セルジューク朝の西進(バグダード入城〜小アジア進出)や、同じくホラズム朝による中央アジア〜イラン支配、アフガニスタン以南ではガズナ朝の北インド侵入から、ゴール朝、デリー・スルターン朝(最後のロディー朝のみアフガン系)へと継承されるトルコ系王朝の北インド征服、支配という歴史が展開していったのである。
モンゴル民族の発展
チンギス=ハンは、長城以南の農耕社会を攻略するための財政的基礎を築き、モンゴル帝国の東西を押さえるため、その率いるモンゴル軍を内陸の東西貿易路に進めた。
1209年、黄河上流の西夏を屈服させ、1218年には、ナイマンに奪われていた中央アジアの西遼を滅ぼしてイスラーム世界と国境を接することになった。(西夏遠征)
さらにチンギス=ハンは、モンゴルの通商使節が殺害されたことを口実に、西トルキスタン、イランを支配するイスラームの新興国家ホラズム・シャー朝(1077〜1221)に対して遠征を行なった。モンゴル軍は、ブラハ、サマルカンドなどのオアシス都市をつぎつぎと攻略し、1221年、ホラズム・シャー朝を滅ぼし(正式には1231年滅亡)、インダス川上流の西北インドまで侵入した。
チンギス=ハンの西征 – 世界の歴史まっぷ
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
東方イスラーム世界
アッバース朝カリフを保護下においたイラクのセルジューク朝も、アラル海付近におこったホラズム・シャー朝(1077〜1231)によって1194年に滅ぼされた。
東方イスラーム世界 – 世界の歴史まっぷ
歴史
建国から拡大の時代
ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。
アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
クトゥブッディーン・ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。
- 1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある。
- 1141年、カトワーンの戦い(西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍)でセルジューク朝第8代するターンのアフマド・サンジャルがカラ・キタイ(西遼)に敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。
- 1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。
- 1172年よりホラズム・シャーのジャラールッディーン・スルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。
- 1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
- 1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。
ホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリやキプチャクの力が大きな役割を果たした。テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムアラーウッディーン・ムハンマドが1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。
大帝国の建設と崩壊
- アラーウッディーン・テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。
- アラーウッディーン・ムハンマドはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。
- カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーン・ムハンマドにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した。
- アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った。
- 同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。
- さらにはゴール朝のガズナ政権君主シハーブッディーン・ムハンマドの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。
- アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ。アッバース朝が招集したファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破り、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。
歴代君主
- アヌーシュ・テギーン(1077年 – 1097年)
- クトゥブッディーン・ムハンマド(1097年 – 1127年)
- アトスズ(1127年 – 1156年)
- イル・アルスラン(1156年 – 1172年)
- ジャラールッディーン・スルターン・シャー(1172年 – 1193年)
- アラーウッディーン・テキシュ(1172年 – 1200年)
- アラーウッディーン・ムハンマド(1200年 – 1220年)
- ジャラールッディーン・メングベルディー(1220年 – 1231年)