ポーランド分割( A.D.1772〜A.D.1795)
- 第1回ポーランド分割(1772):七年戦争後、王位継承をめぐりポーランド国内の混乱に乗じて、ロシア帝国、プロイセン王国・オーストリア3国がおこなう
- 第2回ポーランド分割(1793):フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱、ロシア・プロイセンがおこなう
- 第3回ポーランド分割(1795):ロシア・プロイセン・オーストリアがおこない、ポーランドはいったん消滅する
ポーランド分割
概要
第1回ポーランド分割(1772)
七年戦争後、王位継承をめぐりポーランド国内の混乱に乗じて、ロシア帝国、プロイセン王国・オーストリア3国がおこなう。ポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
- ロシア帝国 ロマノフ朝 エカチェリーナ2世
リヴォニアとベラルーシの一部を獲得 - プロイセン王国 ホーエンツォレルン朝 フリードリヒ2世(プロイセン王)
「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有(中心都市グダニスクは除く) - オーストリア大公国(ハプスブルク帝国) ヨーゼフ2世
ガリツィア地方の一部を獲得
第2回ポーランド分割(1793)
フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱、ロシア・プロイセンがおこなう。残ったポーランド領は20万㎢の土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国化した。
- ロシア帝国 ロマノフ朝 エカチェリーナ2世
ベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積25万㎢と人口300万を獲得 - プロイセン王国 ホーエンツォレルン朝 フリードリヒ2世(プロイセン王)
ポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を含む5.8万㎢と人口100万の土地を獲得
第3回ポーランド分割(1795)
第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失い、1794年、コシューシコらが蜂起するがエカチェリーナは鎮圧し、ポーランド国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキイに退位を迫り、ロシア・プロイセン・オーストリアで最終的分割をおこない、ポーランドはいったん消滅する
- ロシア帝国 ロマノフ朝 エカチェリーナ2世
- プロイセン王国 ホーエンツォレルン朝 フリードリヒ2世(プロイセン王)
- オーストリア大公国(ハプスブルク帝国) ヨーゼフ2世
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
ポーランド分割
16世紀後半にヤギェウォ朝(1386〜1572)(リトアニア・ポーランド王国 西スラヴ人の動向)が絶えたポーランドでは、選挙王政がおこなわれていた。しかし、1733年には王位継承をめぐってフランス・ロシア・オーストリアを巻きこむ戦争がおこった。他方、16世紀以来、エルベ川以東のプロイセンやポーランドの国内では、のちのユンカーにあたる有力者や貴族層が、農奴制を強化しながら穀物を増産し、これを西ヨーロッパに輸出していた(再版農奴制)。とくにポーランドでは、こうして貴族が西欧文化をとりいれた豊かな生活を送る一方、商業は外国人にゆだねられ、農民は重い賦役に苦しめられていたため、国家としてのまとまりを著しく欠いていた。
左からエカチェリーナ2世(ロシア)、スタニスワフ2世アウグスト(ポーランド・リトアニア共和国王)、ヨーゼフ2世(オーストリア)、フリードリヒ2世(プロイセン王)。
さらに、フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱すると、ロシアのエカチェリーナ2世は、プロイセンとともに再び分割を強行した(1793)。これによって、ロシアは白ロシアやウクライナの一部を奪取し、プロイセンもダンツィヒ(グダニスク)などをえた(第2回ポーランド分割)。これに対して、ポーランド側でも、コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ)(1746〜1817)が抵抗運動を組織したがおよばず、1795年には全土がオーストリアを含む3国に分割されて、ポーランドという国はいったん消滅した(第3回ポーランド分割)。