マムルーク朝 (1250年〜1517年)
エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝。首都はカイロ。そのスルタンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。
マムルーク朝
内陸アジア世界の変遷
モンゴル民族の発展
モンゴル帝国の解体
キプチャク・ハン国は、バトゥがヨーロッパ遠征(バトゥの西征)の帰途、南ロシアに建国。住民の多くがトルコ系であったことから急速にイスラーム、トルコ化した。また、ロシアの諸侯を朝貢させ、黒海から東方につうじる交通路を支配して、マムルーク朝や東ローマ帝国と交渉をもち、ウズベク・ハンの時代には最盛期を迎えた。しかし、15世紀には内政の腐敗から衰退し、イヴァン3世のモスクワ大公国の独立によって崩壊した。
イルハン国は、フレグの西征でイランを中心に建国。シリアをマムルーク朝と、カフカスをキプチャク・ハン国と争った。
モンゴル帝国の解体 – 世界の歴史まっぷ
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
イスラーム帝国の分裂
マルムーク
マルムークとは「奴隷」を意味するアラビア語である。しかしイスラーム史の中では、はじめ奴隷として購入され、コーランやイスラーム法を学び、軍事訓練をうけたのちに、奴隷身分から解放されて高官にのぼったエリート軍人を指す。
これらのマムルークには、トルコ人をはじめとして、スラヴ人、クルド人、モンゴル人、チェルケス(サーカシア)人、グルジア人、アルメニア人、ギリシア人などが含まれる。
9世紀以降、彼らはイスラーム諸王朝の軍隊の中核を形成し、13世紀半ばには、エジプト、シリアにマムルーク朝を建設した。オスマン帝国のイェニチェリもマムルークと同じ種類の軍事集団である。
バグダードからカイロへ
アイユーブ朝第7代スルタンのサーリフ(スルタン)(在位:1240〜1249)は、トルコ人奴隷兵を数多く購入してマムルーク軍団を組織したが、やがてその勢力は強大となり、1250年、アイユーブ朝を倒してエジプト、シリアにマムルーク朝を建国した。
しかし、シリアにはまだアイユーブ家の勢力が残存し、またエジプトではアラブ遊牧民が異民族の政権に対して大規模な反乱を起こしたから、成立当初のマムルーク政権は不安定な状態にあった。
第5代スルタンに就任したバイバルス(1260〜1277)は、シリアに侵入したモンゴル軍を撃退するとともに、アッバース朝カリフの後裔を新しいカリフとしてカイロに擁立し、さらにメッカ、メディナの両性都を保護下に入れることによって、マムルーク朝国家の基礎を確立した。
マムルーク朝の最盛期は、ナースィル・ムハンマド(位1293〜1294, 1299〜1309, 1310〜1341)の時代に訪れた。
イクター制の再編成によってマムルーク体制を整えたスルタンは、運河の開削・整備によって農業生産の向上をはかるとともに、インド洋と地中海を結ぶ商業路を支配下において東西貿易の利益を独占した。首都カイロにはモスクや学院が次々と建設され、モンゴル軍によって破壊されたバグダードにかわって、カイロがイスラーム文化活動の新しい中心となった。
しかし15世紀半ば以降になると、たび重なるペストの流行とスルタン位をめぐるマムルーク軍閥の抗争によってマムルーク朝はしだいに衰えた。
建国
13世紀半ばにルイ9世(フランス王)率いる十字軍(第7回)がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤは、サーリフの夫人であった奴隷身分出身の女性シャジャル・アッ=ドゥッルを指導者とし、1250年にマンスーラの戦いでルイ9世を捕虜として捕らえ十字軍を撃退すると、サーリフの遺児であるがシャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないトゥーラーン・シャーをクーデターによって殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルを女性スルターンに立てて新政権を樹立した。女性スルターンにはマムルーク以外のムスリム(イスラム教徒)の抵抗が強かったため、同年にシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリーヤの最有力軍人イッズッディーン・アイバクと再婚し、アイバクにスルターン位を譲った。以後、マムルーク出身者がエジプトのスルターンに立つようになるので、シャジャル・アッ=ドゥッルもしくはアイバクをマムルーク朝の初代スルターンに数える。
アイバクはかつてのバフリーヤの同僚マムルークを追放し、自身の所有する子飼いのマムルークを立てて権力を確立したが、バフリーヤの支持を受けて権力を保持しつづけていたシャジャル・アッ=ドゥッルとも対立し、暗殺された。シャジャル・アッ=ドゥッルもすぐに殺害され、やがてアイバクのマムルークの間からムザッファル・クトゥズが台頭してスルターンとなる。
1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると(モンゴルのシリア侵攻)、クトゥズはバフリーヤの指導者バイバルスと和解し、アイン・ジャールートの戦いでフレグの将軍キト・ブカ率いるモンゴル軍を破った。この戦いの帰路でクトゥズと再び対立したバイバルスはクトゥズを陣中で殺害し、自らスルターンとなった。
マムルーク朝の事実上の建設者となったバイバルスは、フレグの開いたイルハン国や、シリアに残存する十字軍国家の残滓と戦い、死去する1277年までにマムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで広げた。
バフリー・マムルーク朝
イッズッディーン・アイバク以降のマムルーク朝の前期は、バイバルスをはじめとして多くがアイユーブ朝のサーリフが創めたバフリーヤの出身者が占めたため、この時期のマムルーク朝はバフリー・マムルーク朝と呼ばれる。
バイバルスの死後、その遺児バラカ、サラーミシュが相次いでスルタンに立ち、バイバルス家によるスルターン位の世襲が図られたが、バイバルスの同僚でバフリーヤの第一人者であった将軍カラーウーンによって、彼らは相次いで廃され、1279年、マンスール・カラウーンが自らスルターンの座についた。カラーウーンはバイバルスの政策を継承して、エジプトの国家建設を進めるとともにシリアでの軍事作戦を盛んに行い、1291年、カラーウーンの子アシュラフ・ハリールのときシリアにおける十字軍勢力最後の領土であったアッカー(アッコ)を征服してアイユーブ朝のサラーフッディーン以来の対十字軍戦争を最終勝利に導いた。
しかし、強力な君主であったカラーウーンの死後、マムルーク朝の中央政治は混乱した。アシュラフ・ハリールは在位わずかにして殺害され、幼い弟ナースィル・ムハンマドが立てられるが、やがてカラーウーン子飼いのマムルークたちとアシュラフのマムルークたちとの間で政権を巡る争いがおこり、ナースィルは廃位された。やがてカラーウーン派のマムルークが勝利してナースィルは実権のないスルターンとして復位させられ、1310年に自らクーデターを起こしてようやく親政を確立した。
ナースィルは自身の子飼いのマムルークを登用、領内の検地を行って忠実なアミール(マムルークの将軍)にイクター(徴税権)を授与し、絶対的な支配権を確立した。ナースィルのもとでキプチャク・ハン国と同盟を結んでイル・ハン国との和解もはかられ、マムルーク朝の内外の情勢は安定し、首都カイロは国際商業都市・イスラム世界を代表する学術都市として栄えた。
1324年頃、メッカ巡礼の途上だったマリ帝国のマンサ・ムーサ王がカイロに立ち寄り、ナースィルに大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のナースィルは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。
ナースィルの死後、彼の子飼いのアミールたちはその子孫をスルターンに立てて傀儡とし、実権なきカラーウーン家の世襲支配が40年続いた。もっとも有力なアミールは大アミールとアターベクを兼ねて国政の実権を握ったが、その地位を巡る政争も激しく、スルターンや大アミールの失脚が繰り返し発生した。
ブルジー・マムルーク朝
1382年、バルクークはカラーウーン家のスルターンを廃して自ら王位に就いた。バルクークはチェルケス人主体のブルジー軍団の出身のマムルークで、バルクーク以降、マムルーク朝の主体となるマムルークがそれまでのバフリー・マムルークからブルジー・マムルークに移るため、この時期のマムルーク朝をブルジー・マムルーク朝あるいはチェルケス・マムルーク朝と呼んでいる。
ブルジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われなくなり、スルタンは有力アミールの間から互選で選ばれる第一人者となっていた。この制度のため、アミールたちはスルタン候補となる有力アミールのもとで軍閥を形成し、軍閥同士の派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しくならざるを得なかった。
15世紀にはペストの流行をきっかけにカイロの繁栄に陰りが見え始め、マムルーク朝を支えたエジプトの経済も次第に沈降に向かった。16世紀初頭にはインド洋貿易にポルトガル人が参入し、1509年にはマムルーク朝の海軍はインドのディーウ沖でポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊に敗れた(ディーウ沖海戦)。陸上ではオスマン朝との対立が深まり(オスマン・マムルーク戦争 (1516年 – 1517年))、1516年、北シリアのアレッポ北方で行われたマルジュ・ダービクの戦いでセリム1世率いるオスマン軍に大敗を喫した。翌年、セリム1世はカイロを征服し(リダニヤの戦い)、マムルーク朝は滅亡した。
歴代スルタン
バフリー・マムルーク朝
- シャジャル・アッ=ドゥッル(女)(在位:1250年)
- イッズッディーン・アイバク(在位:1250年 – 1257年)
- マンスール・アリー(在位:1257年 – 1259年)
- ムザッファル・クトゥズ(在位:1259年 – 1260年)
- ザーヒル・バイバルス(在位:1260年 – 1277年)
- サイード・バラカハーン(在位:1277年 – 1279年)
- アーディル・サラーミシュ(在位:1279年)
- マンスール・カラウーン(在位:1279年 – 1290年)
- アシュラフ・ハリール(在位:1290年 – 1293年)
- ナースィル・ムハンマド(在位:1293年 – 1294年)
- アーディル・キトブガー(在位:1294年 – 1296年)
- マンスール・ラージーン(在位:1296年 – 1299年)
- ナースィル・ムハンマド(復位)(在位:1299年 – 1309年)
- ムザッファル・バイバルス(在位:1309年 – 1310年)
- ナースィル・ムハンマド(復位)(在位:1310年 – 1341年)
- マンスール・アブー=バクル(在位:1341年)
- アシュラフ・クジュク(在位:1341年 – 1342年)
- ナースィル・アフマド(在位:1342年)
- サーリフ・イスマーイール(在位:1342年 – 1345年)
- カーミル・シャーバーン(在位:1345年 – 1346年)
- ムザッファル・ハーッジー(在位:1346年 – 1347年)
- ナースィル・ハサン(在位:1347年 – 1351年)
- サーリフ・サーリフ(在位:1351年 – 1354年)
- ナースィル・ハサン(復位)(在位:1354年 – 1361年)
- マンスール・ムハンマド(在位:1361年 – 1363年)
- アシュラフ・シャーバーン(在位:1363年 – 1377年)
- マンスール・アリー(在位:1377年 – 1381年)
- サーリフ・ハーッジー(在位:1381年 – 1382年)
- ザーヒル・バルクーク(在位:1382年 – 1389年)
- サーリフ・ハーッジー(在位:1389年 – 1390年)
ブルジー(チェルケス)・マムルーク朝
- ザーヒル・バルクーク(在位:1390年 – 1399年)
- ナースィル・ファラジュ(在位:1399年 – 1405年)
- マンスール・アブド・アルアズィーズ(在位:1405年)
- ナースィル・ファラジュ(復位)(在位:1405年 – 1412年)
- ムアイヤド・シャイフ(在位:1412年 – 1421年)
- ムザッファル・アフマド(在位:1421年)
- ザーヒル・タタール(在位:1421年)
- サーリフ・ムハンマド(在位:1421年 – 1422年)
- アシュラフ・バルスバーイ(在位:1422年 – 1438年)
- ザーヒル・ジャクマク(在位:1438年 – 1448年)
- アズィーズ・ユースフ(在位:1448年)
- ザーヒル・ジャクマク(復位)(在位:1448年 – 1453年)
- マンスール・ウスマーン(在位:1453年)
- アシュラフ・イーナール(在位:1453年 – 1460年)
- ムアイヤド・アフマド(在位:1460年 – 1461年)
- ザーヒル・フシュカダム(在位:1461年 – 1467年)
- ザーヒル・ヤルバーイ(在位:1467年 – 1468年)
- ザーヒル・ティムルブガー(在位:1468年)
- アシュラフ・カーイトバーイ(在位:1468年 – 1495年)
- ナースィル・ムハンマド(在位:1495年 – 1498年)
- ザーヒル・カーンスーフ(在位:1498年 – 1499年)
- アシュラフ・ジャーンバラート(在位:1499年 – 1501年)
- アーディル・トゥーマーンバーイ(在位:1501年)
- アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(在位:1501年 – 1516年)
- アシュラフ・トゥーマーンバーイ(在位:1516年 – 1517年)