マルクス・トゥッリウス・キケロ (紀元前106年〜紀元前43年)
共和政ローマ末期の政治家、文人。文章はラテン散文の模範とされる。アントニウスに反して暗殺された。
修辞家で政治家でもあったキケロは、法廷弁論や政治家への書簡など生彩あるローマ史の資料を多数残した。
マルクス・トゥッリウス・キケロ
生涯
カティリナの陰謀
ルキウス・コルネリウス・スッラ配下の武将として民衆派の大量粛清に加担した一人であったルキウス・セルギウス・カティリナは、スッラの死後、次第に借金を多く作るようになり、借金を帳消しにするという公約を掲げて執政官に立候補しようとした。
スッラの古参兵を始めとして、借金に苦しむ人々の支持が見込まれたカティリナであったが、経済的に常に金を貸す側であったローマの元老院議員たちはこれを快く思わず、カティリナの立候補を認めようとせず、妨害工作を行った。
紀元前63年、思い余ったカティリナは彼の支持者たちとともに、その年の執政官マルクス・トゥッリウス・キケロの殺害をはじめ、武力をもってローマを制圧するクーデターを図るが、この計画は密告によって事前に漏れた。
カティリナ弾劾演説
紀元前63年にルキウス・コルネリウス・スッラの副官であったルキウス・セルギウス・カティリナのクーデター計画に対しマルクス・トゥッリウス・キケロが告発、首謀者であるカティリナに対する弾劾演説を行った。ローマ最高の弁護士として名声の高かったキケロの演説の中でも、特に名演説として知られている。
マルクス・ポルキウス・カトらの助力を得て、首謀者を死刑とする英断を下し、元老院から「祖国の父」(pater patriae) の称号を得てカティリナの同志5人は捕えられ、即刻処刑された。
ローマ市内にいなかったカティリナは逮捕を免れたが、ローマ軍団による攻撃を受け、彼に付き従う3,000人の兵士とともに玉砕した。
しかし、カティリナ一派を死刑するというこの決断は、「ローマ市民は、市民による裁判を受けなければ、死刑に処されることはない」というローマの法に反したものであったため、越権行為であるという批判がなされた。その結果、紀元前58年、護民官に就任したプブリウス・クロディウス・プルケルの訴追によって、キケロは、ローマからの逃亡を余儀なくされる。
三頭政治に反対
翌年、キケロ召還決議が可決したため、キケロは、ローマに凱旋帰国する。その後、グナエウス・ポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススによる第一回三頭政治に反対した。一方で「クロディウスがパトリキ出身でありながら護民官に就任したことは違法であり、クロディウスが護民官時期に行った施策は無効である」旨を表明したところ、カトはこれに激しく反発したため、カトとの仲が冷却化した。
ローマ内戦
紀元前49年から紀元前45年、グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で内戦が続いた。(内乱の1世紀)。
キケロは当初中立を保ったが、カエサルがヒスパニアで苦境に陥っていたことから、ポンペイウス側に身を投じた。
紀元前48年8月、ファルサルスの戦いでカエサル派が元老院派を打倒して独裁体制を確立した。キケロは、マルクス・テレンティウス・ウァロらと共に元老院派を離脱した。その際、無責任で身勝手な対応に終始したため、カトの制止がなければ、キケロは、小ポンペイウスに殺害されるところであった。
後にカエサルにより許されたが、以降は政治から離れて学問に専念し、アッティクスの協力も得て、数々の著作を世に送り出した。紀元前46年4月にウティカでカトが自害したため、キケロは、カトの生き様を誉め讃えた『カト』を発刊した。同時期にカエサルも『反カト』を発刊したが、共に現存していない。
キケロは、他の元老院議員たちとは違い、独裁者に変貌していくカエサルや共和政ローマの崩壊を目の当たりにして、不安を覚えていた。このことは、『アッティクス宛書簡集』などから読み取ることができる。
アントニウスとの対決と暗殺
紀元前44年3月15日、ガイウス・ユリウス・カエサルが暗殺された。そのとき、キケロは、その事件に直接には関らなかったものの、暗殺者たちを支持しており、その数日後にブルートゥスなどの暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するため、当時平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚し、彼の人気を後ろ盾に『フィリッピカ』と題する数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。
しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより、キケロは、失脚してしまう。キケロを亡き者にしたいというアントニウスの要求にオクタウィアヌスが屈するというかたちで、プロスクリプティオ(共和政ローマで実施された特定の人物を国家の敵として法の保護の対象外に置く措置。その名簿は公示され、その人物の財産を没収しても罪に問われないものとされた。)にキケロを名簿に公示した。
そのため、ブルートゥスらが勢力を持っていたマケドニア属州へと向かったものの、紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により暗殺された。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、フォロ・ロマーノに晒されることとなった。
紀元前30年、アントニウスは、アクティウムの海戦に敗れて自死した。このとき、キケロの息子マルクス(小キケロ)は、ローマの執政官であったが、アントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。
著作
キケロはまたストア哲学者として、ギリシア哲学の用語をラテン語訳した功績があり、実践論理としてのストア哲学をローマの上流社会に流行させる役割も果たした。『義務論』『老年について』などがその代表的著作である。
『弁論家について』(De oratore)(紀元前55年)全3巻
『国家論』(De re publica)(紀元前54年~紀元前51年)全巻の3分の1が現存
『法律』(De legibus)(紀元前52年~紀元前51年)
『ストア派のパラドックス』(Paradoxa Stoicorum)(紀元前46年)
『慰め』(Consolatio)(紀元前45年)
『ホルテンシウス』(Hortensius)(同上)散逸
『カトゥルス』(Catulus)(同上)散逸
『善と悪の究極について』(De finibus bonorum et malorum)(同上)全5巻 – Lorem ipsumの原典
『アカデミカ』(Academici libri)(同上)全2巻うち第1巻の4分の1及び第2巻が現存
『トゥスクルム荘対談集』(Tusculanae disputationes)(同上)全5巻
『神々の本性について』(De natura deorum)(同上)全3巻
『予言について』(De divinatione)(紀元前44年)全2巻
『大カトー・老年について』(Cato major de senecutute)(同上)
『宿命について』(De fato)(同上)未完
『ラエリウスまたは友情について』(Laelius de amicitia)(同上)
『栄光について』(De gloria)(同上)散逸
『義務について』(De officiis)(同上)全3巻
キケロ が登場する作品
ROME
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