モラヴィア王国
A.D.833〜A.D.907
9世紀前半、フランク王国の東方進出に対抗して、現在のチェコのモラヴィア(ドイツ語:レーメン)に、チェック人のモラヴィア王国が建設された。10世紀初めマジャル人に滅ぼされたが、それに先駆けて9世紀末にはベーメン王国(ボヘミア)がその支配から離れ、まもなくプラハを中心とするプシェミスル朝のもとで統一された。
モラヴィア王国
西スラヴ人の動向
古代のスラヴ人は、ドニエプル川流域からヴィスワ川流域一帯、特にカルパティア山脈より北の地域に居住し、農耕・牧畜と狩猟・漁労で生計を立てていたが、民族大移動の刺激を受け、6〜7世紀にかけてゲルマン人が移動した後に広がっていった。
モラヴィア王国
このうち、西方に拡大した西スラヴ人の中から、7世紀前半には最初のスラヴ人国家サモ(623〜658)がアヴァール人支配に対抗して建設され、続いて9世紀前半には、フランク王国の東方進出に対抗してチェック人のモラヴィア王国が建設された。
この帝国は10世紀初めマジャル人により滅ぼされたが、それに先駆けて9世紀末にはベーメン(ボヘミア)がその支配から離れ、まもなくプラハを中心とするボヘミア王国プシェミスル朝(900〜1306)のもとで統一された。