レオナルド・ダ・ヴィンチ( A.D.1452〜A.D.1519)
イタリアの画家、彫刻家・建築家・科学者。芸術と科学の合致を目指したルネサンスの「万能の人」。ミラノのスフォルツァ家の宮廷で画家・彫刻家・建築家・兵器の技術者として活躍。ルイ12世(フランス王)に招かれてミラノの宮廷画家になり、レオ10世(ローマ教皇)に招かれて、ローマで創作活動を行った。晩年はフランソワ1世(フランス王)に請われてフランスへ渡り同地で没した。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
万能の天才と呼ばれた芸術家
天賦の才を生かし、フィレンツェで芸術家として活躍していたレオナルドは、30歳のとき、ミラノに向かった。ミラノの領主ルドヴィーコ・スフォルツァ、通称イル・モーロの華やかで洗練された宮廷に招かれたのだ。スフォルツァ家のお抱えの宮廷画家となったレオナルドは、領主の注文に縦横無尽に応じた。肖像画や騎馬像制作、宮廷祭典の演出や装飾、屋敷の設計、衣装のデザインなど、あらゆることに手を染めたのだ。
1494年、スフォルツァ家の霊廟であるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁画制作の依頼を受ける。スフォルツァ家の威光を示すこの壁画に、レオナルドは約4年の歳月をかけて取り組み、心血を注いだ。
死が近づいたことを察知したイエスが、12人の弟子たちと共に食事をとる「最後の晩餐」は、聖書の中でも最大のクライマックスである。すでに幾人かの画家たちがこのシーンを描いていたが、自信家のレオナルドは、斬新で独創的な不朽の名作を生み出したのだった。
本作「最後の晩餐」で、レオナルド・ダ・ヴィンチは、キリストの右のこめかみに遠近法の消失点を設け、見る者の視線が自然にキリストに集中するように導いている。
「あなたがたのうち一人が、私を裏切ろうとしている」
会食中の師の衝撃的な言葉に、弟子たちは驚き、うろたえた。思わず立ち上がる者もいて、恐れと疑惑に、場の雰囲気が一変する。一番弟子のペトロにいたっては激昂してナイフをつかむほどだ。レオナルドは、衝撃をうけ、座がざわめき立つ瞬間を巧みにとらえ、使徒たちの動揺を臨場感たっぷりに表現した。それまでほかの画家たちが描いてきた、静的で宗教画然とした「最後の晩餐」とは一味違う、リアルで人間臭いドラマに仕上げたのである。
教会の食堂に描いた斬新な「最後の晩餐」
レオナルドはフィレンツェ時代から、「最後の晩餐」創作の構想を抱いていた。それぞれの弟子の顔や頭部のデッサンや、全体の構図の習作を繰り返していた。制作を始めると、背景の窓外の風景や上部の半円窓などの構図も綿密に計算し、作品全体が中央に座るイエスの頭上に集中するよう、遠近法を駆使したのである。世界で最も有名で最も美しい「最後の晩餐」といわれる所以だ。
死ぬまで手放さなかった名画「モナ・リザ」
作品完成後、パトロンのイル・モーロは、侵入してきたフランス軍に捕らえられてしまう。スフォルツァ家の没落で威光を失ったレオナルドは、一人静かにミラノを去った。マントヴァやヴェネツィアの宮廷をへて、18年ぶりにフィレンツェに戻ったレオナルドに、新たな仕事の注文が舞い込んだ。
フィレンツェ政府が、市庁舎の大会議室の壁画制作をふたりの画家に依頼したのだ。円熟味を増した実力派レオナルドと、新進気鋭のミケランジェロ・ブオナローティに、フィレンツェの戦争をテーマにした壁画を競作させようというわけだ。精力的に下絵を描き始めたレオナルドだが、途中で創作意欲をなくして放棄してしまう。フランス王に呼ばれて、再びフランス政庁のあるミラノへ旅立った。
だがこのフィレンツェ時代、レオナルドはもう一つの名作「モナ・リザ」を創作している。地元の裕福な夫人エリザベッタ・デル・ジョコンダをモデルに、普遍的な女性美を描き出した。神秘的な笑みを浮かべる「モナ・リザ」の不思議な魅力未完に終わったこの作品を、レオナルドは死ぬまで手元から離さなかったといわれる。
略歴
- 1452年 フィレンツエに生まれる
- 1465年 ヴェロッキオ工房に入る
- 1490年 ミラノ宮廷で活躍
- 1495年 この頃「最後の晩餐」の制作に着手する
- 1502年 チェーザレ・ボルジア指揮下で従軍
- 1503年 この頃「モナ・リザ」の制作を開始(〜1505年)
- 1516年 フランス王に招聘される
- 1519年 フランスにて死去
「万能人」としてさまざまな分野で活躍
フィレンツェ郊外「ヴィンチ村出身の」レオナルドは近隣の芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオの弟子になった。ところがヴェロッキオとレオナルドとで「キリストの洗礼」を共同作画した際、ヴェロッキオは才能と技術がレオナルドの方が上回っていることを悟り、以後絶筆したといわれている。30歳になったレオナルドはミラノへ赴いた。
レオナルドは、ミラノ公国の摂政ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ大聖堂の食堂の壁に「最後の晩餐」を描いた。レオナルドはここで、遠景をかすませて描く「空気遠近法」を用いている。
レオナルドはミラノで、絵画以外にも、青銅の彫刻、軍事機器の製作・改良なども行なった。
ルドヴィーコ・スフォルツァが失脚すると、レオナルドは故郷のフィレンツェに戻る。「モナ・リザ」の大部分はこのとき描かれたものである。その後、ルイ12世(フランス王)に招かれてミラノの宮廷画家になり、また、レオ10世(ローマ教皇)に招かれて、ローマで創作活動を行った。
65歳からはフランソワ1世(フランス王)に請われてフランスへ渡った。レオナルドは、王の城のあるアンボワーズに住居を与えられ、ここで余生を過ごした。ここに「モナ・リザ」を持参し、最後まで筆を入れていたという。
フランソワ1世が築いたシャンボール城 。レオナルド・ダ・ヴィンチが設計に関与したといわれる。
フランソワ1世(フランス王)の内政は、百年戦争後の財政復興も順調で、絶対王政が整っていった。また、文化に造詣が深く、イタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチを招いた。
ギャラリー
1512年頃、およそ60歳のレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像。その相貌は、「モナ・リザ」と似ているともいわれている。
1490年頃、レオナルドが描いた「人体均衡図」。彼は、人体各部の比例関係を見だしただけでなく、人体と宇宙全体もまた均衡と調和によって成り立っていると考えた。
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同時代の人物
雪舟 (1420〜1506)
日本水墨画の大成者。幼時に出家し、京都相国寺で絵を学ぶ。48歳で明に留学。以後寺に入らず、自由な画僧生活を送った。代表作は「四季山水図」。