ローマ帝国 同盟市戦争 パクス・ロマーナ 共和政ローマ ポエニ戦争 共和政ローマ(身分闘争) ローマの発展 6.ローマの成立と発展 ローマ帝国 ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
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共和政ローマ

プトレマイオス朝

東ローマ帝国, 西ローマ帝国

オスマン帝国, イスラム帝国, 東ゴート王国, ブルグント王国, ヴァンダル王国, スエビ王国, フランク王国, ブルガリア王国, ヴェネツィア共和国

皇帝一覧

ローマ皇帝一覧

帝政ローマ前期 プリンキパトゥス(元首政)

ユリウス・クラウディウス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
オクタウィアヌス紀元前63年9月23日ローマ(イタリア本土)紀元前27年1月16日 – 14年8月19日プレブス階級(オクタウィウス氏族)出身。ユリウス・カエサルの大甥(姉の孫)という縁で継承者の途絶えたユリウス氏族カエサル家を継ぐ。最初のローマ皇帝として、元首政を確立。14年8月19日自然死
ティベリウス帝紀元前42年11月16日ローマ(イタリア本土)14年9月18日 – 37年3月16日クラウディウス氏族出身。アウグストゥスの後妻リウィアの連れ子で、継父の大甥ゲルマニクスの後見人として即位。37年3月16日自然死(暗殺説あり)
カリグラ帝12年8月31日 -アンティウム(イタリア本土)37年3月18日– 41年1月24日クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの息子。41年1月24日近衛隊による暗殺
クラウディウス帝紀元前10年8月1日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス)41年1月25日(26日説あり) – 54年10月13日クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの弟でカリグラの叔父。姪である小アグリッピナ(カリグラの妹)と再婚。54年10月13日小アグリッピナによる暗殺
ネロ帝37年12月15日アンティウム(イタリア本土)54年10月13日 - 68年6月9日クラウディウス氏族出身、継父の養子となる前はドミティウス氏族に属した。カリグラの妹である小アグリッピナの子で、クラウディウスの養子。68年6月11日自害

四皇帝の年

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ガルバ紀元前3年12月24日テッラチーナ(イタリア本土)68年6月8日 – 69年1月15日スルピキウス氏族出身。ヒスパニア各属州の軍団から支持を獲得、ネロを廃位した元老院から皇帝に推挙される。69年1月15日オトと近衛隊による暗殺
オト32年4月25日エトルリア(イタリア本土)69年1月15日 – 69年4月15日サルウィウス氏族出身。ガルバの縁戚であったが、近衛隊と結んで謀殺した。69年4月15日自害
ウィテッリウス15年9月7日ローマ(イタリア本土)69年4月17日 – 69年12月22日ウィテッリウス氏族出身。ゲルマニア各属州の軍団から支持を獲得、オト軍を破って帝位に就く。69年12月22日ウェスパシアヌス軍との戦いで敗死
ウェスパシアヌス9年11月17日フラシリネ(イタリア本土)69年7月1日 – 79年6月23日フラウィウス氏族出身。ウィテッリウスを破り、政情を安定させて四皇帝の年を終結させる。79年6月23日自然死

フラウィウス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ウェスパシアヌス9年11月17日フラシリネ(イタリア本土)69年7月1日 – 79年6月23日フラウィウス氏族出身。フラウィウス朝の初代皇帝。79年6月23日自然死
ティトゥス帝39年12月30日ローマ(イタリア本土)79年6月24日 – 81年9月13日フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの長男。フラウィウス朝の第2代皇帝。81年9月13日病死
ドミティアヌス51年10月24日ローマ(イタリア本土)81年9月14日 – 96年9月18日フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの次男。兄ティトゥスが病に伏せると兄の生存中だったが帝位を掌握した。96年9月18日召使による暗殺

ネルウァ=アントニヌス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ネルウァ35年11月8日ナルニ(イタリア本土)96年9月18日 – 98年1月27日コッケイウス氏族出身。フラウィウス朝断絶後、元老院により推挙される。98年1月27日自然死
トラヤヌス53年9月18日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ)98年1月28日 - 117年8月9日ウルピウス氏族出身。老齢で嫡男のいないネルウァに養子として迎えられる。117年8月9日自然死
ハドリアヌス76年1月24日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ)117年8月11日 – 138年7月10日アエリウス氏族出身。トラヤヌスの従兄弟ハドリアヌス・アフェルの子。親族の男子として嫡男のいない従伯父トラヤヌスの養子となる。138年7月10日自然死
アントニヌス・ピウス86年9月19日ラウィニウム(イタリア本土)138年7月10日 – 161年3月7日アウレリウス氏族出身。マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの後見人として即位。トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。161年3月7日自然死
マルクス・アウレリウス121年4月26日ローマ(イタリア本土)161年3月7日 – 180年3月17日アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの甥。従姉妹である小ファウスティナと結婚、コンモドゥスとルキッラを儲ける。180年3月17日自然死
ルキウス・ウェルス130年12月15日ローマ(イタリア本土)161年3月7日 – 169年3月頃アエリウス氏族出身。ハドリアヌスの側近ルキウス・アエリウスの嫡男。アウレリウスと共にアントニヌスの養子とされ、共同皇帝となる。アウレリウスと小ファウスティナの子ルキッラと結婚。169年3月頃病死(暗殺説あり)
コンモドゥス161年8月31日ラウィニウム(イタリア本土)180年3月18日 – 192年12月31日アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの孫、マルクス・アウレリウスと小ファウスティナの子、ルキッラの弟。父アウレリウスの死後、帝位を継承する。192年12月31日近衛隊による暗殺

五皇帝の年

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ペルティナクス126年8月1日アルバ・ポンペイア(イタリア本土)193年1月1日 - 193年3月28日ヘルウィウス氏族出身。自身はローマ人だが、父の代まではリグリア人の属州民だった。近衛隊と結んでコンモドゥスを暗殺、帝位に就く。財政改革の失敗で元老院と近衛隊の支持を失う。193年3月28日近衛隊による暗殺
ディディウス・ユリアヌス133年1月30日メディオラヌム(イタリア本土)193年3月28日 - 193年6月1日ディディウス氏族出身。ペルティナクス暗殺後の「帝位競売」に勝利して帝位に就くが、軍と民衆の支持を得られなかった。193年6月1日近衛隊による暗殺
セプティミウス・セウェルス146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ)193年4月9日 - 211年2月4日セプティミウス氏族出身。パンノニア属州の軍から支持を得て蜂起、ユリアヌス暗殺後のローマへ入場。その後、同じく蜂起していたペスケンニウス・ニゲルとクロディウス・アルビヌスを破りセウェルス朝を創始。211年2月4日自然死

セウェルス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
セプティミウス・セウェルス 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ)193年4月9日 - 211年2月4日セプティミウス氏族出身。セウェルス朝を樹立して、軍人皇帝時代まで自身の王朝を維持した。211年2月4日自然死
カラカラ 186年4月4日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス)198年頃 – 217年4月8日セプティミウス氏族出身。セウェルスの長男。父の即位と同時期に共同皇帝へ指名され、後に弟ゲタも共同皇帝となって三名で統治を行っていた。しかし父の死後にゲタを処刑して単独の皇帝となる。217年4月8日マクリヌスによる暗殺。
ゲタ 189年3月7日ローマ(イタリア本土)209年頃 – 211年12月26日セプティミウス氏族出身。セウェルスの次男。209年頃から父と兄の共同皇帝となる。211年12月26日カラカラによる暗殺。
マクリヌスとディアドゥメニアヌス165年(マクリヌス・オペッリウス)
208年(マルクス・オペッリウス・ディアドゥメニアヌス)
217年4月11日 - 218年6月8日オペッリウス氏族出身。セウェルス朝と血縁関係がない。カラカラ帝時代に近衛隊長を務めていたマクリヌスとその子ディアドゥメニアヌスはカラカラを謀殺してセウェルス朝を一旦断絶させた。しかしカラカラの落胤を自称する(実際には従姉の子(従甥)でカラカラの母方の伯母ユリア・マエサの孫)ヘリオガバルスの軍に敗れ、親子共に相次いで戦死した。218年
ヘリオガバルス軍に敗死
ヘリオガバルス203年3月20日
エメサ
(属州シリア)
218年6月8日 – 222年3月11日氏族不明。カラカラの従姉ユリア・ソエミアス・バッシアナによって、カラカラの落胤として掲げられた。性的倒錯の末、近衛隊に暗殺される。222年3月11日
近衛隊による暗殺
アレクサンデル・セウェルス208年10月1日
アルカ・カエサリア
(属州ユダヤ)
222年3月13日 - 235年3月18日氏族不明。ヘリオガバルスの従弟で、ヘリオガバルスを見限った祖母ユリア・マエサによって擁立された。235年3月18日
軍による暗殺

軍人皇帝時代

軍人皇帝時代

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
マクシミヌス・トラクス 173年(属州トラキア、若しくはモエシア)235年3月20日 – 238年4月頃蛮族出身の軍人。アレクサンデル暗殺後、特異な出自でかつ民衆や元老院の支持もなかったにも関わらず軍事力で帝位を強奪した。これ以降、皇帝の元老院と民衆の軽視が強まり、軍事力による帝位継承が慣例化した(軍人皇帝)。238年4月頃軍による暗殺
ゴルディアヌス1世 159年(属州フリュギア)238年3月22日 – 238年4月12日騎士階級出身。富裕な元老院議員で元老院と民衆によってトラクスの対立皇帝へ推挙され、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝としアフリカ属州で蜂起。息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿で自害した。238年4月12日自害
ゴルディアヌス2世 192年238年3月22日 – 238年4月12日ゴルディアヌス1世の息子。老齢の父に代わって前線で軍勢を率いる。カルタゴの戦いでトラクス軍に敗れ、戦死する。238年4月12日トラクス軍との戦いで敗死
マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス 178年238年4月22日 – 238年7月29日反トラクス派の将軍。元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢をバルビヌスとの諍いで再び悪化させた。口論の最中にバルビヌスと同時に暗殺され、川に投げ捨てられた。238年7月29日近衛隊による暗殺
デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス 不明238年4月22日 – 238年7月29日元老院議員。プピエヌスの共同皇帝として政務面を補佐するが、不仲で有名であった。ゴルディアヌス2世の遺児を副帝に指名する。238年7月29日近衛隊による暗殺
ゴルディアヌス3世 225年1月20日ローマ(イタリア本土)238年4月22日 – 244年2月11日ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の甥(妹の子)。元老院と民衆からの深い同情から人気を集め、バルビヌスとプピエヌスの副帝とされ両者の暗殺後に単独の皇帝に。244年2月11日ペルシア軍との戦いで敗死(もしくはピリップス・アラブスによる暗殺)
ピリップス・アラブスとマルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス シャハバ(属州シリア)244年2月頃 – 249年後半ゴルディアヌス3世の近衛隊長。ペルシア戦争後に帝位継承を宣言、息子のピリップス2世を後継者として共同皇帝に指名した。249年後半デキウス軍との戦いで敗死
デキウスとヘレンニウス・エトルスクス 201年ブダリア(属州下パンノニア249年後半 – 251年6月頃ピリップス・アラブスの側近。息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。251年6月ゴート軍との戦いで敗死
ホスティリアヌス ローマ251年6月 – 251年後半デキウスの次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後に帝位を継ぎ、トレボニアヌス・ガッルスの養子となり共治帝となるが同年に疫病で病死。251年後半病死(ガッルスによる暗殺説もあり)
トレボニアヌス・ガッルスとガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス 206年(イタリア本土)251年6月 – 253年8月デキウスの重臣。モエシア総督を務め、デキウス死後の混乱で遠征軍を掌握して帝位につく。ホスティリアヌスの死後息子のウォルシアヌスを共同帝に。アエミリアヌスの裏切りに遭い、自軍の兵士によって暗殺された。253年8月軍による暗殺
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス 207年(属州アフリカ)253年8月 – 253年10月トレボニアヌスの腹心。後任のモエシア総督に任命されるが、裏切ってトレボニアヌスとウォルシアヌスから帝位を奪う。だがウァレリアヌス軍が帝位を請求して進軍すると、自らも兵士によって暗殺された。253年10月軍による暗殺
ウァレリアヌス 200年253年10月 – 260年デキウスの重臣。ノリクム及びラエティア総督を務め、アエミリアヌスと帝位を争って勝利した。ペルシア戦争に従軍するもエデッサの戦いで大敗し、捕らえられた上で処刑された。260年 以降シャープール1世による処刑される
プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスとプブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス 不明253年10月 – 268年9月ウァレリアヌスの息子。父から共同皇帝に指名され、ウァレリアヌス処刑後は単独の皇帝として統治する。エデッサの戦いによる帝国の権威失墜の中で、ガリア帝国・パルミラ王国の分離独立というかつてない大乱に直面する。268年9月クラウディウス・ゴティクスによる暗殺
クラウディウス・ゴティクス 213年(214年)5月10日シルミウム(属州パンノニア)268年9月 – 270年1月出自不明。ガッリエヌスを暗殺して帝位を奪う。大乱の中で侵入が本格化した蛮族に対し、ゴート族とのナイススの戦いに大勝してこれを押し留めた。270年1月自然死
クィンティッルス 不明シルミウム(属州パンノニア)270年クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後に帝位を継承するが、アウレリアヌスに暗殺される。270年アウレリアヌスによる暗殺
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス 214年(215年)9月9日シルミウム(属州パンノニア)270年 – 275年9月クラウディウス・ゴティクスの重臣。複数の戦いで蛮族に勝利して対外情勢を安定化させた。更にガリア帝国・パルミラ王国を滅ぼして帝国領を回復、元老院から「世界の修復者」の尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャに侵攻する途中、秘書官に暗殺される。275年9月秘書官による暗殺
マルクス・クラウディウス・タキトゥス 200年テルニ275年9月25日 – 276年6月元老議員。アウレリアヌスの急死によって皇帝に選出される。即位時点で老齢であり、ペルシア戦争の再開を準備する中で病没した。276年6月自然死
フロリアヌス 不明276年6月 – 276年9月タキトゥスの異父弟。兄の死に伴い帝位継承を主張して西方属州の支持を得る。しかし東方属州の支持を得たプロブスに苦戦を強いられ、見限った軍に暗殺された。276年9月軍による暗殺
プロブス 232年シルミウム(属州パンノニア)276年9月 – 282年後半帝国軍の高官。東方属州の支持を背景にフロリアヌスを破り、皇帝に即位する。対外戦争で功績を挙げるが、ペルシャ戦争の途中でカルスの反乱により暗殺される。282年後半近衛兵による暗殺
マルクス・アウレリウス・カルス 230年ナルボ282年後半 – 283年8月プロブスの近衛隊長。戦争中にプロブスを暗殺、指揮権を奪ってペルシャ戦争を継続した。戦いは優勢に進んだが、落雷による事故で急死した。283年8月事故死
カリヌス 不明283年8月 – 285年カルスの長男。父の反乱によって弟ヌメリアヌスと副帝となり、父が遠征先で戦死すると遠征に同行していた弟と共に皇帝となった。しかし弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌスが遠征軍を掌握するとこれに敗れ、戦死する。285年ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死
ヌメリアヌス 不明283年8月 – 284年カルスの次男。本国を守る兄に対して、父と共にペルシャ遠征に従軍した。父が事故死すると帝位を継いだ兄の共同皇帝となり、遠征軍の撤退を指揮する。撤退中、配下の裏切りで暗殺される。284年軍による暗殺

帝政ローマ後期 ドミナートゥス

テトラルキア時代

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ディオクレティアヌス 東ローマ244年12月22日サロナ(属州ダルマティア)284年11月20日 – 305年5月1日属州民出身の軍人皇帝。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた。また共同皇帝による東西分割を導入、自らは東方正帝を務めた。311年12月3日自然死
マクシミアヌス 西ローマ250年頃シルミウム(属州パンノニア)286年4月1日 – 311年5月1日属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される。ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。310年頃コンスタンティヌス1世により処刑される
ガレリウス 東ローマ260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア)305年5月1日 – 311年5月頃属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。311年自然死
コンスタンティウス・クロルス 西ローマ250年3月31日ダルダニ(属州モエシア)305年5月1日 – 306年7月25日クラウディウス2世とクィンティッルスの末裔(正確にはクラウディウス2世とクィンテッルスの姪クラウディアの末裔)を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。306年7月25日自然死
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 西ローマ不明306年夏 – 307年前半属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。307年9月16日マクセンティウスにより処刑される
マクセンティウス 西ローマ278年頃306年10月28日 – 312年10月28日マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし、西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも、後に反旗を翻されて帝位を追われる。312年10月28日コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死
リキニウスとマルティアヌス、バレリウス・バレンス 東ローマ250年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア)308年11月11日 – 324年9月18日ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。325年頃コンスタンティヌス1世により処刑される
マクシミヌス・ダイア 東ローマ270年11月20日311年5月1日 – 313年後半ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。313年後半リキニウスの軍勢に敗死
コンスタンティヌス1世 西ローマ272年2月27日ナイッスス(属州モエシア)306年7月25日 – 337年5月22日コンスタンティウス・クロルスの息子。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。337年5月22日自然死

コンスタンティヌス朝

名称
生年と誕生地
在位期間
即位背景
没年と死因
コンスタンティヌス1世272年2月27日ナイッスス(属州モエシア)306年7月25日–337年5月22日コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。自身の死後は息子三人と甥二人による五人の分治を画策する。337年5月22日自然死
コンスタンティヌス2世316年337年5月22日–340年コンスタンティヌス1世の長男。父の死後、次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ、弟コンスタンス1世に処刑された。340年コンスタンス1世により処刑される
コンスタンティウス2世317年8月7日シルミウム(属州パンノニア)337年5月22日–361年11月3日コンスタンティヌス1世の次男。即位に際して父の遺言により共治するはずだった従兄弟の二人を殺害しその後、兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる。更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ、父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる。しかし共同帝の必要を感じ、始めは従兄弟のガルスを、後にその弟のユリアヌスを副帝に任じる。361年11月3日自然死
コンスタンス1世320年337年5月22日–350年コンスタンティヌス1世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する。350年マグネンティウスにより暗殺される
ウェトラニオ不明不明–350年12月25日コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすが、コンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される。その後、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。356年自然死
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア)360年初頭–363年6月26日コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。363年6月26日遠征中に戦傷死
ヨウィアヌス331年シグドゥヌム(属州モエシア)363年6月26日–364年2月17日ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。364年2月17日事故死

ウァレンティニアヌス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ウァレンティニアヌス1世 西ローマ321年キバラエ(属州パンノニア)364年2月26日 – 375年11月17日ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。375年11月17日自然死
ウァレンス 東ローマ328年キバラエ(属州パンノニア)364年3月28日 – 378年8月9日ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。378年8月9日ゴート軍との戦いで敗死
グラティアヌス 西ローマ359年 シルミウム (属州パンノニア)367年8月4日 – 383年8月25日ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。383年8月25日アグヌス・マキシムスにより暗殺される
ウァレンティニアヌス2世 西ローマ371年ミラノ (イタリア本土)375年11月17日 – 392年5月15日ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。392年5月15日暗殺

テオドシウス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
テオドシウス1世 東ローマ347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア)379年1月1日 – 395年1月17日ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、ウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。 グラティアヌスによって共同皇帝とされた後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世の死によって単独皇帝となった。395年1月17日自然死
アルカディウス 東ローマ377年383年1月 – 408年5月1日テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。408年5月1日自然死
ホノリウス 西ローマ384年9月9日393年1月23日 – 423年8月15日テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。423年8月15日自然死
コンスタンティウス3世 西ローマ生年不明ナイッスス(属州モエシア)421年2月8日 – 421年9月2日テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。421年9月2日自然死
テオドシウス2世 東ローマ401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア)408年5月1日 – 450年7月28日アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没したため、姉の夫マルキアヌスを後継者に指名する。450年7月28日自然死
ヨハンネス 西ローマ不明423年8月27日 – 425年5月ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙される。しかしテオドシウスの孫であるウァレンティニアヌス3世に敗れて退位させられた。425年5月ウァレンティニアヌス3世により処刑される
ウァレンティニアヌス3世 西ローマ419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土)424年10月23日 – 455年3月16日コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。455年3月16日ペトロニウス・マキシマスにより暗殺される
マルキアヌス 東ローマ396年450年夏 – 457年1月テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。457年1月自然死

テオドシウス朝断絶後

西方帝位

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ペトロニウス・マクシムス396年455年3月17日–455年5月31日元老院議員。ウァレンティニアヌス3世の暗殺によって西方におけるテオドシウス朝断絶を画策した。元老院の支持によって帝位を得たが、ヴァンダル族の前に首都を捨てて逃亡、激怒した民衆に投石されて死亡した。455年5月31日民衆による投石で死亡
アウィトゥス385年455年7月9日–456年10月17日フン族を破った将軍アエティウスの側近。西ゴートとの交渉中にペトロニウスの失脚を知り、ゴート軍の助力を得てローマを占領する。西ゴート撤退後、蛮族出身の軍務長官リキメルに謀殺される。456年10月17日リキメルにより暗殺される
マヨリアヌス420年11月457年4月–461年8月2日アウィトゥスの同僚。リキメルによって傀儡として擁立されるも、影響下を脱して独自に統治を行う。優れた手腕で西方領土の再建を進めるが、志半ばでリキメルに暗殺される。461年8月2日リキメルにより暗殺される
リウィウス・セウェルス生年不明ルカーニア(イタリア本土)461年11月–465年8月元老院議員。リキメルの傀儡としてマヨリアヌス暗殺後に皇帝となる。リキメルに従順に従うも、不要と判断されて4年後に毒殺される。465年リキメルにより暗殺される
アンテミウス420年467年4月12日–472年7月11日東方正帝マルキアヌスの娘婿。リキメルの傀儡として皇帝となるも、東ローマの後ろ盾で独立を図る。472年7月11日リキメルにより暗殺される
オリュブリウス420年472年7月11日–472年11月2日ウァレンティニアヌス3世の娘婿。リキメル病没後、ヴァンダル軍の協力を得て帝位を奪うが、自らも流行病に倒れる。472年11月2日自然死
グリュケリウス?473年3月–474年6月アニシウス氏族出身。ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取るが、東方正帝レオ1世の支持を得たユリウス・ネポスに追放される。480年以降サロナにて病没
ユリウス・ネポス430年474年6月–475年8月28日(イタリア)–480年春(ダルマティア)ダルマティア海軍の提督マルケリヌスの甥で、東方正帝レオ1世の娘婿。東方領土の強い支持でグリュケリウスを追放して皇帝となる。蛮族の軍師オレステスの裏切りで追放され、ダルマティアへ亡命する。新たな東方正帝ゼノンからは正式な「西方の共同皇帝」と見なされ、ロムルス・アウグストゥルスとオレステスを追放したオドアケルからも承認されていた。しかしその存在を危険視したオドアケルの翻意で刺客を送られ、暗殺される。480年オドアケルにより暗殺される
ロムルス・アウグストゥルス460年475年10月31日–476年9月4日蛮族の軍師オレステスの息子。母親はローマ人だったが、半蛮族の皇帝もローマでは認められてはいなかった。オドアケルに敗れた父オレステスの失脚により、帝位を返上して追放される。以降、法律的には東方正帝が西方正帝を兼ねることとなるが、政治的には西方領土という概念自体が消失した。不明

古代ローマが登場する映画

古代ローマが登場する海外ドラマ

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