五箇条の誓文 A.D.1868〜
新政府は京都御所の紫宸殿において、明治天皇自身が神に誓う形で新政府の基本方針を天下に表明。政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるために発布。併せて天皇が国の中心であるという政治理念を示した。
五箇条の誓文
1868年3月発布の新政府の基本方針。初め諸侯会盟の議事規則として由利公正が原案を起草し、福岡孝弟が修正。木戸孝允が福岡案の「列侯会議ヲ興シ」を「広ク会議ヲ興シ」とし、列藩同盟の形を国の進むべき方針の形に改め、明治天皇が神に誓う形式で発布。重点は公議世論の尊重と開国和親。
近代国家の成立
明治維新と富国強兵
新政府の発足
1868(明治元)年1月、新政府はいち早く条約締結諸国に王政復古によって天皇を主権者とする新政権が成立したことを通告し、諸国の承認を得、国内に向かっては開国和親の布告を行った。ついで同年3月14日、旧幕府征討の軍勢が江戸に向かいつつある最中に、新政府は、京都御所の紫宸殿において、明治天皇自身が群臣をしたがえて天地の神々に誓約するというかたちをとって五箇条の誓文を発し、新しい政治の方針を天下に表明した。これは、政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるために出され、公議輿論の尊重・開国進取・旧習の打破など新しい政治の基本方針を明らかにし、併せて、天皇が国の中心であるという政治理念を国内に示したものであった。
慶応4年(明治元年)3月14日、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、維新の基本方針を天地の神々にお誓いになりました。絵には副総裁三條實美が五箇條の御誓文を御神前に奉読する光景が描かれています。明治天皇は白の御引直衣をお召しになり玉座に南面し、御神前に御身体をお向けになっておられます。この日、天皇みずからが国難の先頭に立って伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国を隆昌に導こうとするにあたり、国民への協力を求める告諭(宸翰)が、御誓文とあわせて布告されました。 参考:明治神宮
翌日、太政官がかかげた五榜の掲示(高札)では、五倫の道を説き、徒党・強訴を禁じ、キリスト教を邪教として禁じるなど、旧幕府のそれまでの儒教道徳に基づく教学政策を引き継いでいたが、それらはすべて5年以内に撤廃された。さらに、同年閏4月、政体書を発布して誓文の方針を官制に具体化して、新政府の組織をととのえた。
五箇条の誓文の内容
- 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
- 上下心を一にして、盛に経綸を行うべし。
- 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
- 旧来の陋習(悪い習慣)を破り、天地の公道に基づくべし。
- 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。
立憲国家の成立と日清戦争
立憲政治への動き
欧米の議会政治についての知識はすでに幕末に伝えられ、「公議政体」という考え方も芽ばえていた。五箇条の誓文にみられるように、明治政府が公議輿論を国民統合の原理としてかかげたのはその現れであろう。