北条義時 (
A.D.1163〜A.D.1224)
鎌倉幕府第2代執権(在位1205〜1224)。北条政子の弟。得宗家2代目当主。後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発してはじまった承久の乱(1221)で鎌倉幕府は大勝し、仲恭天皇を退け、後鳥羽上皇の兄の子の後堀河天皇を即位させて後鳥羽上皇の血縁を忌避した。ついで後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇を佐渡島に、土御門上皇を土佐に流し、上皇方の貴族・武士の所領はすべて没収した。幕府の勢力は広く全国に及び、幕府権力を盤石とし、執権体制を確立した。
北条義時
執権体制を確立した軍政・軍略の天才
二代執権として幕府権力を盤石にする
北条義時は父・北条時政とともに源頼朝に従い、主に軍略・軍政面で才能を発揮。源頼朝から「義時をもって家臣の最となす」と激賞されるほどの篤い信頼を得た。
義時が幕府の実権を握るのは父の時政を政治から追放してから。頼朝挙兵以来の古参とはいえ、このとき義時は40代。ちょうど脂の乗りきった頃である。執権となった義時だが、急いで独裁を打ち出すような真似はしなかった。あくまでも、将軍源実朝や姉北条政子を前面に押し立て、宿老と協調しながら事を進める。一方で、北条に反逆するものあれば、その処置は断固たる態度で臨んだ。とくに後鳥羽上皇が起こした承久の乱の戦後処理は厳しく、上皇を流罪に、公家を監視する六波羅探題を京に置いた。朝廷の勢力は失墜し、幕府の権力基盤は磐石となる。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
武士の社会
北条氏の台頭
源頼朝のあとを受け継いだのは、嫡子源頼家であった。けれども御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が、頼朝と同様に強大な権力をもつことを歓迎しなかった。頼朝の死からわずか3ヶ月ののち、北条時政・大江広元・三善泰信ら幕府の宿老たちは、頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取りあげた。頼家の活動を制限し、その上で御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治運営を開始した。13人の合議制と呼ばれるものがこれである。
13人の合議制
若年の新将軍源頼家の専制をおさえるための制度。構成は、文官として大江広元・三善康信・中原親能(広元の兄)・二階堂行政の4人、頼朝以来の武将として北条時政・北条義時・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時の9人である。当時の幕府の有力者を知ることができる。また制度としては、のちの評定衆や引付衆に連なっていく。
合議の中心に位置したのは、頼家の母北条政子の実家北条氏であった。これ以後、北条氏の台頭は急速に顕著になっていく。
1204(元久元)年、北条時政は幽閉中の源頼家を殺害し、翌年にはひそかに源実朝を退けて娘婿の平賀朝雅を将軍職につけようとした。朝雅は信濃源氏の名門の出身で、当時京都守護として活躍していた。陰謀の一環として、幕府の重臣畠山重忠の一族が滅ぼされた。しかし、この企ては北条政子らの反対にあい、朝雅は京都で殺され、北条時政は引退を余儀なくされた。時政のあとは、その子の北条義時が受け継いだ。
1213(建保元)年、義時は和田義盛とその一族を滅ぼした。義盛は頼朝以来の功臣で、梶原景時滅亡以後に侍所別当の職に復帰しており、その勢力は侮れなかった。鎌倉を戦火に巻き込んだ和田合戦の末に、義盛の本家三浦氏を味方につけた北条方が勝利し、義時は政所と合わせて侍所の別当を兼ね、執権の地位を不動のものとした。
1219(承久元)年正月、源実朝は源頼家の遺児の公暁によって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまう。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏説、三浦氏説があり定かでない。結局、公暁も殺されて、源氏の正統は3代27年で断絶した。北条義時は親王を奉じて将軍に立てたいと願ったが、後鳥羽上皇はこれを許さなかった。そこで源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経が、後継者として鎌倉に迎えられた。1226(嘉禄2)年に将軍となり、これを摂家将軍、藤原将軍という。将軍とは名ばかりで、実権は執権北条氏の手中にあった。
承久の乱へ
成人に達した後鳥羽上皇が後白河法皇の後継者として強力な指導力を発揮するようになる。上皇は歴代の治天の君(院政を行った上皇をこのように呼ぶ)たちと同様に専制を指向し、権力を一心に集中していった。九条兼実が重視した貴族の合議は退けられ、政務は上皇と、何人かの上皇の寵臣によって執り行われた。乳母の卿二位(藤原兼子)をはじめとする上皇の近親者が政治に口を出し、大きな力をもった。
後鳥羽上皇は八条院領、長講堂領など、分散していた広大な天皇家領を手中に収めて経済的な基盤を強化した。そのうえで、これらの土地を恩賞として、新たな朝廷の軍事力を編成していった。畿内・近国の武士や幕府の有力御家人までもが上皇に臣従し、北面の武士や、また新たに設けられた西面の武士に任じられた。彼らは日頃から上皇のそば近くに仕え、直接上皇の命を受け、大寺社の僧兵などとの戦闘に従事していた。
上皇は将軍源実朝をあつく遇した。破格の官位を与え、母と后の実家坊門家の女性を選んで彼の妻とし、側近の源仲章という人物を学問の師として鎌倉に送った。上皇は実朝を通じ、鎌倉幕府に影響力を行使しようとしたのではないかと考えられている。ところが実朝は暗殺され、仲章も同時に殺害された。上皇が皇子の新将軍就任を拒否したことは前述したが、この件にみられるように、朝廷と北条氏を代表する幕府との関係は急速に不安定になっていった。1221(承久3)年5月、ついに上皇は北条義時追討の院宣を諸国の武士に発した。承久の乱の始まりである。
上皇のもとには、北面・西面の武士となった有力御家人や、北条氏に反発する人々が集まった。しかし、上皇の思惑に反し、武士の大多数は上皇の呼びかけに応じなかった。北条氏が主導する幕府のもとに、御家人たちは続々と集結していったのである。大江広元の意見にしたがって短期決戦をとった義時は、長子北条泰時を大将とし、弟北条時房を副将として、東海・東山・北陸の3道から大軍を京都に進ませた。朝廷軍はこれを迎え討ち、木曽川や宇治・勢多に戦ったが、兵力差は歴然で、一戦のもとに敗れ去った。幕府軍は鎌倉を発して1カ月足らずの間に、朝廷軍を壊滅させて京都を占領した。
乱後、義時は泰時・時房の両名をそのまま京都にとどまらせて、事件の後始末をさせた。まず後鳥羽上皇の嫡孫仲恭天皇を退け、上皇の兄の子の後堀河天皇を即位させた。後鳥羽上皇の血縁を忌避したのである。ついで後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇を佐渡島に、土御門上皇を土佐に流した。
治天の君が処罰されるなど前代未聞のことであり、朝廷の威信は著しく失墜した。また、計画の中心にあった何人もの貴族・武士を斬罪に処した。貴族の処刑もあまり前例のないことで、当時の人々を驚嘆させた。人々は朝廷と幕府の関係を新たに認識し直したに違いない。
上皇方の貴族・武士の所領はすべて幕府に没収され、関東御陵に組み込まれた。先の平家の遺領が500カ所余りであったのに比して、この時の所領は3000カ所にのぼった。幕府は功績のあった御家人に対し、これを地頭職として与えた。この地頭を新補地頭といい、新補地頭の給与を定めた基準を新補率法という。新補率法によって地頭に保障されて権益は、
- ①田畠11町ごとに1町ずつを、年貢を荘園領主や国司に納めずに地頭が取得する地頭給田とする。
- ②田畠1段ごとに米5升ずつを加徴米として徴収する。
- ③山野や河海からの収益は地頭と荘園領主・国司らで折半する。
というものであった。上皇方の所領は畿内・西国に多く分布していた。そのため、こうした地域にも新たに地頭がおかれることにより、幕府の勢力は広く全国に及ぶようになった。