反ユダヤ主義 anti-semitism
ユダヤ教やユダヤ教徒、またはユダヤ人に対する、偏見・差別迫害などの思想と行動。
反ユダヤ主義
ユダヤ教やユダヤ教徒、またはユダヤ人に対する、偏見・差別迫害などの思想と行動。キリスト教世界で「キリスト殺しの民」とみなされていたユダヤ教徒に対して、十字軍時代から、迫害や社会的差別・隔離が定着した。19世紀に入ると、ヨーロッパ各地でユダヤ教徒に対する差別解放がなされ、彼らの市民社会への同化も進んだ。しかし、彼らへの差別意識は根強く残っており、19世紀後半に人種主義的な「反ユダヤ主義(反セム主義とも)」のことばがうまれ、ロシア・東欧でポグロム(ユダヤ系住民に対する集団的暴行・虐殺)がおこり、フランスでドレフュス事件が発生した。また20世紀に入ってからも、ナチスによるユダヤ人大虐殺がおこった。
帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
フランス
世紀末から20世紀初頭にかけて、ユダヤ人将校ドレフュス Drefus (1859〜1935)がドイツのスパイとして流刑に処された冤罪事件をきっかけとする左右両派の論争は共和国の存亡をかけた対立へと発展した。このドレフュス事件は国民の間の根強い反ユダヤ主義と対独報復熱という排外ナショナリズムが結びついたものであった。
ドレフュス事件事件
1894年秋、ユダヤ人の将校ドレフュスはドイツのスパイ容疑で逮捕され、軍事法廷により悪魔島への終身流刑の判決をうけた。ドレフュスがもとドイツ領のアルザス出身のユダヤ人であることが法廷の予断を生んだ。その後、真犯人はドレフュスの同僚の将校であり、軍が証拠を捏造したことが明らかになったにもかかわらず再審請求の道は開けなかった。1898年、作家のゾラが大統領宛に「私は告発する」の公開質問状を発表し、軍部の不正を告発すると、冤罪事件を主張する知識人・学生・共和派の政治家が結集した。これに対し、極右の国家主義者・反ユダヤ主義者・カトリック派などは国家の秩序と安定を優先して軍部の名誉を擁護した。こうして、ドレフュス事件は、真犯人探しというミステリー部分の解明は後景に退き、共和国の存立を問う事件となった。
1899年には軍法会議は再び有罪判決を下し軍部の権威を優先させた。しかし、大統領が特赦を与えて、ドレフュスを解放させた。だが、特赦はあくまでも政治的決着をはかったものであり、ドレフュスが最終的に無罪判決を勝ち取ったのは1906年のことであった。ドレフュス派対反ドレフュス派の対立は平和主義か軍国主義か、国際主義かナショナリズムかの争いとなり、これに反ユダヤ主義や共和国と教会の対立も加わって共和国の政治は激しく動揺したが、ドレフュスが再審を勝ち取ったことで軍の民主化や政教分離が進んだ。
日本で昭和前期に軍部の力が強まり言論統制が厳しくなる情勢のもとで、大佛次郎がこの事件をとりあげたように、今ではドレフュス事件は国家による冤罪と人権抑圧に抗したジャーナリズムの物語としてよく知られている。
ドイツ
工業化の進展とともに、企業の管理部門を担う事務職員(ホワイトカラー)の従業員の数が急速に増加して新しい中間層を形成した。彼らは職業選択の背景となる学歴の点や、都市に生活する俸給生活者として、賃金労働者とは区別される社会層となった。重工業資本家、化学工業など振興工業の資本家、農業エリートのユンカー、中小農民、新旧中間層、労働者などさまざまな社会層の利害を代表する利益団体の組織化も進んだ。これらの諸団体は諸政党とも連携しつつ、政策決定に影響をおよぼしていった。石炭・鉄鋼などの重工業界によって設立された大衆組織であるドイツ艦隊協会は政府の艦隊増強計画のプロパガンダ活動を引きうけ、国民に世界強国の夢をふりまいた ❸ 。
社会民主党系の労働組合の発展も著しく、1912年には組合員数は256万人に達した。政治的な路線闘争よりも共済制度や福利厚生事業による労働者保護を重視する労働組合の動向は、社会民主党の急進主義からの後退に影響を与えた。政府は帝国主義的な膨張政策を展開して反体制派や労働者を体制内に統合し、市民の側でも全ドイツ人による大帝国建設を求めるパン=ゲルマン主義を支持する傾向が強まった ❺ 。
このようなナショナリズムは反ユダヤ主義やポーランド人などの外国人労働者排斥運動と結びついた。1912年の社会民主党の勝利は、反帝国主義闘争をすてて有権者の現実的要請に応じた結果えられたものでもあった。
反ユダヤ主義
ユダヤ人の解放はフランス革命以来の課題であり、実際19世紀の西ヨーロッパではユダヤ系市民は職業選択の自由や参政権を獲得していった。その結果、ドイツのメンデルスゾーン家のような著名な音楽家や芸術家も輩出した。
しかし、他方では、進化論が社会思想や国家論に応用されて、国家や民族間の闘争においては、ある人種は他の人種に優越するという学説(社会進化論)が現れるようになった。その差別意識は帝国主義的侵略の犠牲となったアフリカの人々などにむけられたが、ナチス=ドイツに顕著にみられるように振興のユダヤ系大資本家への反発などと結びつくと人種論的反ユダヤ主義となった。他方、19世紀末のロシア・東欧では深刻な社会的危機の際に社会的異分子としてのユダヤ人に集団的暴行・虐殺を加える事件がおきた。ロシアではこれを、ポグロムと呼んでいる。農奴解放後のアレクサンドル2世暗殺直後、1905年のロシア革命(第1次ロシア革命)前後、そして1917年のロシア革命とそれにともなう内戦の時期にポグロムは多発した。