司馬炎(武帝)( A.D.236〜A.D.290)
西晋の創建者・初代皇帝(在位265〜290)。魏の実力者であった父を継ぎ、265年魏の元帝の禅譲を受けて即位し、律令や田制(占田・課田法)を整備したが、女色に溺れて政治を顧みず、外戚の専横を許すようになった。
司馬炎
西晋の創建者・初代皇帝(在位265〜290)。魏の実力者であった父を継ぎ、265年魏の元帝の禅譲を受けて即位し、律令や田制(占田・課田法)を整備した。
晋王朝が三国時代に終止符を打つ
父・司馬昭から晋王を譲られた司馬炎は、さらに魏の元帝に禅譲を迫り、晋王朝(西晋)を創始。元号を「泰始」とした。
魏の弱点は、皇族の力が足りなかったことにあると判断した司馬炎は、一族を諸王として各郡に封じた。また20編620条に及ぶ泰始律令を完成。学問、礼節を重んじ、国家の基礎を固めた。
建国の10年後、司馬炎は呉王朝への侵攻を開始した。東西から20万を超える大軍を集め、呉の首都建業を征圧。孫皓を捕えて、ようやく三国を統一した。
税制として戸調式の施行、占田・課田法で大土地所有者の抑制、軍縮など、新政策を推し進めた司馬炎であったが、三国統一後は一転して淫楽に走る。後宮に5000人の女子を入れ、孫皓から奪った5000人もそれに加えた。
北方民族の侵入には手を打たず、次代の景帝のときに起こる八王の乱から晋滅亡への道をつくることになった。
三国時代を終わらせ晋王朝(西晋)を開く
265年、司馬炎(武帝)は魏の元帝に迫って禅譲を行わせ、晋(西晋)王朝を開く。そして魏滅亡の要因を宗室抑止策により皇帝を孤立させたことにあるとして、諸王の封建を行なった。また、泰始律令を定めて国の基礎を固め、呉討伐の準備を進めた。
280年、司馬炎は20余万の大軍を動員して呉の都・建業を攻略。孫皓を捕虜として天下統一を達成した。
以後、州や郡の常備兵を大胆に削減するとともに、占田・課田法や戸調式など斬新な政策を推し進めたが、女色に溺れて政治を顧みず、外戚の専横を許すようになった。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
魏の帝室は曹丕(文帝)ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、魏の将軍司馬炎は皇帝の位について(武帝)晋(西晋)を建国した。
司馬炎(武帝)は洛陽を都とし、280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。武帝は、権力の維持にあたって一族を各地に王として封じ、軍権を与えるなど大きな権力をもたせて、帝室の守りにしようとしたが、かえって皇帝の権力を弱めることになった。