回鶻
A.D.744〜A.D.840
テュルク系遊牧民族鉄勒の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。
ウイグル帝国,ウイグル国,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には廻紇、回紇、廻鶻、回鶻などがある。
回鶻
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
東アジアの風土と民族
ウイグル族は回紇(回鶻)などとも称せられ、9世紀中ごろ多民族に追われて現在の新疆地方へ移った民族である。
ウイグル族はトルコ系の部族で、15世紀以降イスラーム化し、現在中国の新疆ウイグル自治区に居住する。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
玄宗の政治と唐の衰退
玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣を重用し、愛妃楊貴妃との愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽・平盧・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠が宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝と自称するにいたった。玄宗は蜀へ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。
この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒、さらに部将史思明父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。
まず政治面では、安史の乱に際して、唐朝は内地にも藩鎮をくまなく設置して、各地の防衛にあたらせたが、この藩鎮が強大な地方権力に成長し、しばしば朝廷に反抗して唐朝を苦しめた。
唐代の文化
マニ教
ササン朝において、マニ(216〜276)がゾロアスター教をもとに、キリスト教・仏教などの諸要素を融合させて創始した宗教である。則天武后のころに伝来し、漢訳経典もつくられ、マニ教を信奉するウイグルとの友好関係を維持する目的もあって、唐では保護政策をとった。
イスラーム教
アラビアのムスリム商人(唐では大食と呼ばれた)によってもたらされ、広州などにはイスラーム寺院(モスク, 清真寺)も建立された。唐代にはイスラーム教は清真教と称されたが、のちにウイグル(回紇)の後裔を含む西域諸民族がイスラーム教に改宗したことから、回教(回回教)とも称されるようになった。
東アジア諸地域の自立
遼の成立
北アジアに強大な勢力を誇っていたトルコ系のウイグルは、840年、イェニセイ川上流のキルギスの侵入をうけて分裂し西遷した。このことは、北アジアにおける民族交替の重要な契機をつくった。
この間隙をぬってモンゴル高原に勢力をのばしたのがモンゴル系の契丹族であった。契丹は、4〜5世紀ころからモンゴル高原東部の遼河上流のシラムレン、ラオハムレン流域で遊牧・狩猟生活を送っていた一部族であった。
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内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
内陸アジアの風土と人々
東トルキスタン
(現中国新疆ウイグル自治区)
東トルキスタンでは、インド=ヨーロッパ語系のオアシス民の活躍がみられ、また、トルコ系のウイグル、カザフ、キルギス、ウズベク、タタールがおり、その他の民族も混在するが、ウイグル人がもっとも多い。
内陸アジアの風土と人々 – 世界の歴史まっぷ
内陸アジアの新動向
突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。以後、突厥およびこれにかわったウイグル(回鶻)と、内陸アジアの草原地帯はしばらくトルコ民族の制圧するところとなり、中国の強敵として隋、唐帝国(唐王朝)と交戦を重ねることになった。詳細:内陸アジアの新動向 – 世界の歴史まっぷ
東西を結ぶ交通路
オアシス都市国家の盛衰は、東西貿易と深く関係していたが、交易に活動した代表的な商人は、中央アジアのサマルカンドや、ブハラを含むザラフシャン川流域のソグディアナ地方出身のソグド人であった。この地方は西トルキスタンの中心であるので、各地方に広大な通商圏をもった。東方では中国やモンゴルにさかんに往来した。ソグド人はイラン系の民族で、商才に長けていたことでも広く知られている。彼らの商業活動が最もさかんであったのは、5世紀から9世紀にかけてで、活躍した範囲は東は中国、南はインド、西は東ローマ帝国に及んだ。
彼らの商業活動は騎馬遊牧民の保護をうけておこなわれたものであった。エフタルやウイグルは、保護者として役割を果たし、彼らから大きな利益をえたのである。ソグド語は当時国際語として通用した。また、中国産の絹がソグド人によって西方に運ばれたので、この交易路が後に「絹の道」(シルク・ロード)(長安を発して敦煌で二手に分かれ、パミールを超えてイランを横切り、アンティオキアに達する。)と呼ばれた。その沿道の住民は、古くはトハラ人などインド=イラン系であったが、しだいにトルコ系諸民族に取って代わられた。
トルコ化とイスラーム化の進展
突厥・ウイグルとソグド人
内陸アジアの歴史は、軍事力、機動力に優れた遊牧民と、経済力と先進的文化の担い手たるオアシス民の、相互補完的な共生・共存関係によって織りなされる。両者がたがいの長所を利用し合う共存関係が円滑に成立したとき、内陸アジアには強大な帝国が形成される。
6〜7世紀における突厥とソグド人、13世紀におけるモンゴルとウイグル人(天山ウイグル)の関係などはその典型的な例である。
突厥に変わり8世紀に草原の覇者となったトルコ系のウイグルにおいても、ソグド人との共存関係は維持され、唐朝〜ウイグル間の「絹馬交易」の担い手として、唐都長安には常時1000人を超えるソグド人が常駐していたという。
これに対し、ウイグルではイラン起源のマニ教が信仰されたが、これもソグド人らオアシス民の活動によってもたらされたものと考えられる。
8世紀以降、突厥・ウイグルと続くこのようなトルコ系遊牧民の強盛により、オアシス地帯にもトルコ的要素が次第に波及するようになった。オアシス民がトルコ語を習得するようになったり、オアシス地帯に定住するトルコ系民族があらわれるのはその一例である。