坂本竜馬 さかもとりょうま (坂本龍馬 A.D.1835〜A.D.1867)
土佐の郷士出身。1864年、長崎に結社である亀山社中(のちの海援隊)を組織し、いろは丸などを使って海運・貿易事業を展開。1866年、薩長連合を斡旋し、翌年に「船中八策」を起草。大政奉還・公議政体をとなえて活躍中、中岡慎太郎と共に京都河原町で暗殺された。
坂本竜馬
土佐の郷士出身。1864年、長崎に結社である亀山社中(のちの海援隊)を組織し、いろは丸などを使って海運・貿易事業を展開。1866年、薩長連合を斡旋し、翌年に「船中八策」を起草。大政奉還・公議政体をとなえて活躍中、中岡慎太郎と共に京都河原町で暗殺された。
海援隊の結成と船中八策にこめた想い
薩長同盟の成立で維新回天へと動き始めた
「土佐のいなかものがこんなに走り回っているのに、あなた方は一歩も歩き出そうとしない。本当に日本のことを考えているのか」薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允に向かい、坂本龍馬はこう諭したという。歴史の分岐点となった薩長同盟の実現は、もう目の前まで迫っていた。開国した以上、日本が諸外国の脅成にさらされるのは必然のことであった。そのためには西洋文明を受け入れ、富国強兵を国策としなければならない。しかし、弱体化した今の幕府にそれは無理だろうと龍馬は考えた。新しい政治体制を築くためにも、他藩に対し多大な影響力をもつ雄藩である薩摩と長州の力は必要不可欠であるという結論にいたった。しかし、倒幕という共通の目的をもちながら、「禁門の変」「第一次長州征伐」などのわだかまりから両藩は反目、その和解が容易ではないことも龍馬にはわかっていた。だからといって、このまま座視しているわけにはいかない。龍馬の国を思う心は、もち前の行動力と結びつき、同じく土佐脱藩者で同志の中岡慎太郎らと協力し、奔走。そしてついに、それまでぼんやりしていた維新への道筋をつけた歴史的偉業である薩長同盟の実現を成し遂げたのである。
勝海舟との出会い 亀山社中を設立
坂本龍馬は土佐の富裕な商人郷士の家に生まれる。龍馬は武家というよりも商家の子供としてその気質を育んだ。後年の通商貿易への開眼や、洋靴、ビストルなど新しい事物へのいち早い関心も、商人気質の現れだろう。19歳で江戸に出た龍馬は、土佐と江戸を行き来しながら、公武合体と開国を説く佐久間象山の私塾に通い、土佐や水戸の志士と親交を深める。27歳のとき、尊王攘夷を掲げた武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。しかし、間もなく武市や土佐藩と意見を異にし、1862年(文久2)3月、沢村惣之丞とともに脱藩する。10月、江戸にいた龍馬は、勝海舟の私邸を訪ねた。「咸臨丸」で太平洋を渡ってアメリカを見聞したうえで、開国と近代海軍整備の重要性を語り、幕臣でありながら旧態に安住しようとしない勝の言葉に感銘を受けた龍馬は、弟子入りを志願。姉の乙女にも「日本第一の人物、勝麟太郎(海舟)という人の弟子になり」と、手紙でその興奮と喜びを伝えている。勝が軍艦奉行として、神戸に海軍操練所と海軍塾を設立した折には献身的にこれを支え、海軍塾の塾頭を務めている。この頃、勝の片腕として西郷隆盛を知る。海軍操練所が解散すると、龍馬は西郷を頼って長崎へおもむく。そこで薩摩藩の援助をはじめ、イギリスの貿易商人グラヴァーの助力のもと、同じ土佐脱藩の志士らと、海外との武器や物産の海運貿易を行う浪士結社「亀山社中」を結成した。のちの「海援隊」に発展するこの組織は、日本初の商社といわれている。この時期、龍馬は西郷や大久保利通の代わりに書状を届けるなどして、長州藩重臣たちとの接触も重ねた。龍馬は、外国勢力と対等にわたり合うためには、薩摩と長州の和解が重要課題であると考える。亀山社中を使って薩摩藩名義で長州藩の武器を調達したり、長州藩から薩摩藩が兵糧米を購入するなど両藩の和解の素地を整えていった。1866年(慶応2)1月、ついに薩長巨頭会談の運びとなった。ところが、薩摩の西郷、長州の木戸はともに藩の面目に固執して、先に同盟の提案をもち出せない。とくに長州の木戸は「武士道の意地としてそれ(同盟の依頼)はできない。たとえこのまま幕府と戦い長州が焼け野原になっても、薩摩があとに残って皇国のために尽くしてくれるならば本望」という旨の悲壮な決意を龍馬に語ったといわれる。龍馬は西郷に木戸の心情を語り、「薩長同盟は薩摩や長州だけの問題ではない、日本全体の問題だ」と強く説得する。そして両者は、雄藩の長としてのこだわりを捨て、ついに薩長同盟は実現した。困難な局面にも粘り強く柔軟に対応する懐の深さと、一介の浪人の立場に身を置きながら近代国家建設という大目標に邁進する揺るぎのない意志、最後には龍馬個人の魅力が十全に発揮されて、西郷と木戸という傑物の心を動かした歴史的瞬間であった。
寺田屋で九死に一生 お龍の機転で危機を脱する
薩長同盟の締結直後、懇意の船宿の寺田屋にいた龍馬は、幕吏に急襲される。絶体絶命の最中、宿の養女お龍の機転と注進により、手を負傷しながらもピストルで応戦して屋外に脱出。薩摩藩邸に逃げ込み、九死に一生を得た。龍馬は命の恩人であるお龍を連れて薩摩へと旅立った。西郷の計らいである。斬られた傷を癒しつつ約80日間ふたりは薩摩の地で遊んだ。余談だが、お龍は龍馬の姉の乙女との折り合いは悪かったようだ。龍馬死後、乙女のもとに身を寄せたお龍はほどなくそこを去っている。
海援隊での活躍 そして大政奉還
薩長同盟の成立にともない、倒幕の機運がいよいよ高まる中、時流への遅れを痛感した土佐藩は、長崎に後藤象二郎を送り龍馬と会談させる。1867年(慶応3)、土佐藩との関係を修復した龍馬は、亀山社中を土佐藩の外郭機関として「海援隊」と改名した。同年6月9日、龍馬は土佐藩船の夕顔にいた。同乗者は後藤。龍馬はその席で「船中八策」を示し、佐幕と倒幕両派の争いを早急に収め、大規模な内戦を回避し、新国家による富国強兵を進めることが肝要だと後藤を説得。後藤はこれを支持し、前土佐藩主である山内豊信にかけあつた。公武合体派である山内は、これに飛びついた。そして15代将軍として混乱収拾に苦慮していた徳川慶喜に建白する。これを受け慶喜は1867年10月、幕府による大政(政権)を朝廷に奉還(返上)する「大政奉還」を成立させた。龍馬は「よくも断じたまえるかな、予、誓ってこの公のために一命を捨てん」と慶暮の英断に感激したという。翌年布告された「五箇条の誓文」は、船中八策を下敷きにしたといわれている。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
倒幕運動の展開
長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。
1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城が長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。
幕府の滅亡
第2次長州征討に失敗した幕府の権威は地に落ちたが、家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの協力を得て幕政の立て直しにつとめ、幕政改革を行った。中央集権的な政治体制を築くための職制の改変と、フランスから士官を招いての陸軍の軍制改革がその中心であった。
しかし、幕府は長州征討の処理をめぐって薩摩藩と衝突し、1867(慶応3)年、薩長両藩は武力倒幕を決意した。武力倒幕の機運が高まるなか、公武合体の立場をとる土佐藩では藩士の後藤象二郎(1838〜97)と坂本竜馬とがはかって、前藩主の山内豊信を通して、将軍慶喜に倒幕派の機先を制して政権の奉還を行うように勧めた。慶喜もこの策を受け入れて、10月14日、大政奉還を申し出て、翌日、朝廷はこれを受理した。これは、将軍からいったん政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川氏を含む諸藩の合議による連合政権をつくろうという公議政体論に基づく動きで、これによって倒幕派の攻撃をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとするねらいが込められていた。