大友宗麟 おおともそうりん(大友義鎮)( A.D.1530〜A.D.1587)
戦国末期の戦国大名・キリシタン大名。豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の北九州6か国の守護を兼ね、大友氏を北九州最大勢力に成長させる。フランシスコ・ザビエルと出会い、キリスト教を庇護し、自らも洗礼を受け、南蛮貿易で多くの文物を輸入した。洗礼名はドン・フランシスコ。宗麟は法号。
大友宗麟
キリスト教王国を夢見た九州の王
ザビエルと出会いキリシタン大名に
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが山口から豊後府内の大友宗麟のもとにやってきたのは、1551年(天文20)のことである。宗麟はキリスト教に深い関心を示すとともに、その進んだ文明や兵器を手に入れるべく、海外貿易を盛んにした。しかし、宗麟のキリスト教ヘの接近は実利的な目的ばかりでなく、当時の仏教界の腐敗ぶりに対する怒りや、教義に対する宗教的な共感があった。ザビエルとの出会いから27年後、宗麟は正式に洗礼を受け、キリシタンとなる。
北九州最大の戦国大名に成長
宗麟が家督を相続するのと同時期、海を隔てた隣国周防で陶晴賢の謀反により自害した大内義隆の後継者として、弟の晴英が大内義長となって大内氏の名跡を継いだ。これにより、周防との関係が安定。1554年(天文23)、宗麟は肥後の名門菊池氏を滅ぼし、勢力を拡大した。1557年(弘治3)、大内義長は毛利元就に攻められて自害、大内氏は滅亡した。宗麟が大内氏の問題に介入しないのと引きかえに、毛利氏は豊前と筑前に干渉しないという密約により、北九州での大友氏の優位は確定した。その後、筑前、伊予、日向に兵を進め、豊後、豊前、筑前、筑後、肥後、肥前、そして日向と伊予の半国を領する九州最大の戦国大名に成長した。しかし、毛利が密約を破り千渉を始める。宗麟は毛利氏の海からの侵入に備えて臼杵湾の臼杵城に移った。この後、毛利元就は尼子氏との戦いに専念するが、1566年(永禄9)の尼子氏滅亡とともに北九州での活動を再開。以後、筑前の秋月氏、肥前の龍造寺氏、一族の高橋鑑種、立花鑑載らが宗麟に反旗を翻すが、これを駆逐。北九州は再び宗麟の支配下に収まった。
滅亡の端緒となった日向耳川の戦い
1570年(元亀1)、再度兵を起こした龍造寺隆信を征討するため肥前に侵攻したが敗れ、肥前での支配力を後退させた。1577年(天正5)、薩摩の島津義久に国を奪われた日向の伊束義祐の依頼で日向に入る。5万の軍勢を率いての参戦だったが、寺社を破壊し、仏像を砕きながら進軍する大友軍の士気は上がらなかった。日向耳川で島津軍と戦う(耳川の戦い)が、大友軍は大敗し、多くの将士を失った。これをきっかけに肥前の龍造寺隆信が大友氏領内に侵入を開始。膝元の豊後でも大友氏の一族が反乱するなど、宗麟は内外で苦境に立たされた。1584年、龍造寺を破った島津氏が豊後に迫った。滅亡の淵に立たされた宗麟は、全国制覇を日指す豊臣秀吉に救援を依頼。秀吉の島津討伐が決定すると、九州北部は雪崩を打って豊臣方に降った。秀吉の本格的な介入により、島津軍は降伏するが、宗麟は島津氏降伏の直後、没した。
国崩し:1586年、ポルトガル人より宗麟へ贈られた「国崩し」(フランキ砲)は、島津軍の攻撃に対し威力を発揮した。明治維新後、国に奉納され、現在は靖国神社に保存されている。
ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
武家社会の成長
戦国大名の登場
戦国大名
陶晴賢は大内義隆を自刃させたのち、大友義鎮の弟を迎えて大内義長と名乗らせたが、ともに毛利氏によって滅ぼされた。
幕藩体制の確立
織豊政権
南蛮貿易とキリスト教
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549(天文18)年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエル(1506〜52)が鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麒、1530〜87)らの大名の保護を受けて布教を開始した。当時ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発であったが、カトリック側も勢力の挽回をはかって、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かった。その一つがイエズス会である。日本では当時キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼んだ。
ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶがそのうち、大友義鎮(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(如水、ドン゠シメオン、1546〜1604)·長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。
同時代の人物
フランシスコ・ザビエル (1530〜1587)
ナバラ王国生まれのカトリック教会宣教師・聖人。イエズス会創立メンバーの1人。日本にはじめてキリスト教を伝えたが、信者はあまり獲得できず、中国へ渡るが志半ばにして病死。ザビエルの足跡はその後の布教活動の土台となった。