天璋院篤姫
天璋院篤姫(尚古集成館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

天璋院篤姫


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天璋院篤姫 てんしょういんあつひめ( A.D.1836〜A.D.1883)

島津斉彬の養女。将軍家定の正室。将軍継嗣問題で一橋派の斉彬の慶喜将軍擁立のため大奥工作を期待された政略結婚だった。和宮降嫁時も徳川の女を貫き大奥にとどまり将軍家茂の補佐に努め、幕府崩壊後は徳川家救済に尽力。晩年は家達を養育。

天璋院篤姫

「徳川の女」を貫いた薩摩の姫

運命の変転を経て徳川家に尽くした晩年

幼い頃に薩摩藩主の島津斉彬の養女となった天璋院てんしょういんは1856年(安政3)、13代将軍の徳川家定の正室として江戸城大奥に入る。その際、外様の雄藩の娘を正室にすることへの保守派の反対をおもんばかり、いったん近衛家の養女となるという形を取ることになった。

家定は生まれつき病弱で、当時の幕府内では次期将軍に紀州の徳川家茂を推す南紀派と水戸出身の一橋慶喜を推す一橋派が対立していた。天璋院の養父の斉彬は一橋派であり、この輿入れは慶喜将軍擁立のための大奥工作を期待された政略結婚だった。しかし、大奥は南紀派の御年寄の滝山が支配しており、天璋院は使命を果たすことができなかった。結婚から2年もたたず家定が急死、大老の井伊直弼の強権によって次期将軍は家茂に決したのである。

落飾した天璋院は、第14代将軍家茂を迎え入れる立場をとった。和宮降嫁を慮って薩摩藩が引き取りを申し出た際にも「自分は徳川家の人間であるから」と拒否し、大奥にとどまって家茂の補佐に努めた。武家出身の天璋院と皇族の和宮は嫁姑的な関係で、当初は反目もあつたがのちに和解したという。江戸幕府が崩壊すると、実家の島津家に嘆願するなどして、和宮とともに徳川家救済に尽力。江戸城を退去してからは、自らの生活を切り詰めて元大奥の者たちの面倒を見た。死後、所持金はたったの3円しかなかったという。晩年は、徳川宗家の後継者である徳川家達とくがわいえさとの養育に心を砕いて過ごした。

お忍び:明治維新後、勝海舟は「下々の事情を見せる」という名目で、天璋院を料亭・吉原、舟遊びなどに連れ出した。江戸城無血開城に導いた天璋院を海舟は尊敬していたという。

天璋院篤姫が登場する作品

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