太宗(唐)
太宗(唐)(故宮博物院蔵) ©Public Domain

太宗(唐)


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太宗(唐) A.D.598〜A.D.649

唐朝の第2代皇帝(在位626年9月4日 - 649年7月10日)。姓諱:李世民りせいみん。唐王朝の実質的な建国者。隋末の混乱のなか、父李淵と関中を占拠し唐を建国。626年、兄の皇太子・李建成りけんせいをクーデターによって打倒(玄武門の変)、第2代皇帝太宗(唐)に即位し、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。諸制度を整備して唐国家体制の基盤を確立し、東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗の称号を贈られ、治世は貞観の治じょうがんのちと称されて讃えられている。

太宗(唐)

兄弟を殺して帝位を手にする

太原留守たいげんりゅうしゅにあった李淵の第2子。群雄の蜂起が相次ぐなか、李淵の側近、部下らと共に父を促して挙兵に踏み切らせる。長安を占領して拠点とし、隋の恭帝から禅譲を受け、李淵を帝位に就けた後、東方の強敵である王世充おうせいじゅう竇建徳とうけんとく虎牢関の戦いころうかんのたたかいによって一挙に滅ぼす。その後、玄武門の変げんぶもんのへんで兄の太子李建成と弟の斉王李元吉を殺し、父を幽閉して、父から譲られるという形式を踏んで帝位に就いた(太宗(唐))。

太宗(唐)は群雄を平定して天下統一を成し遂げた。さらに東突厥の頡利可汗けつりかがんを降伏させ、鉄勒てつろく(テュルク)諸部の君長たちから天可汗てんかがんの称号を贈られた。この結果、中国には久しぶりに平和が訪れ、それを謳歌した太宗の治世は時の年号をとって「貞観の治」と呼ばれた。貞観の治を支えた者として、文官では魏徴、房玄齢、杜如晦、武官では李靖李勣、尉遅敬徳、秦叔宝、文化人では孔穎達、顔師古、褚遂良、虞世南らの名をあげることができる。

内助の功

李世民の正妻を文徳聖皇后(長孫皇后)という。学問好きで性格は善良。政治には一切口を出さず、自分の近親者を顕職に就けるのにも反対。李淵にもよく仕えたが、34歳で病死した。

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唐王朝の実質的な建国者

煬帝から人心が離れ、各地で反乱が勃発する中、李世民は父・李淵に蜂起を促した。聡明で武勇にも長けた李世民はよく戦い、唐王朝建国に貢献した。
李淵が皇帝に就くと、李世民は宰相に就任。均田制や租庸調の税制の整備など、内政に辣腕を振るう。また東方に残る群雄を掃討し、唐(王朝)支配を確立させた。
しかし、李世民が次期皇帝になる気運を感じた兄と弟は、暗殺を企てる。謀略を察知した李世民は、機先を制してふたりを殺害した(玄武門の変)。
太宗として、唐2代皇帝に即位した李世民は、西域、北方へも兵を進め、広大な領土を有した。征服地には都護府をおき、李世民は漢民族・異民族共通の君主「天下汗てんかがん」となった。この頃から南方諸国も唐に朝貢をはじめている。
年号にちなみ「貞観の治」と呼ばれたように、李世民は安定した政治体制を築いた。隋にはじまった「三省六部」の中央行政組織を完成。それらの監察機関「御史台ぎょしだい」をおいた。また律(刑法)・令(行政法)・格(補足)・式(施行規則)を定め、法体系を確立した。こうした唐(王朝)政治は日本の律令制度にも大きな影響を与えた。
李世民は学芸も重んじた。儒教経典や南北朝時代の正史の編纂を行ない、仏典の漢訳も奨励した。

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十八学士

李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。

杜如晦、房玄齢、于志寧、蘇世長、姚思廉、薛收、褚亮、陸徳明、孔穎達、李玄道、李守素、虞世南、蔡允恭、顔相時、許敬宗、薛元敬、蓋文達、蘇勗の十八人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。

二十四功臣

643年(貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である閻立本に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に凌煙閣二十四功臣とも言われている。

長孫無忌、李孝恭、杜如晦、徴、房玄齢、高士廉、尉遅恭、李靖、蕭瑀、段志玄、劉弘基、屈突通、嶠、柴紹、長孫順徳、張亮、侯君集、張公謹、程知節、虞世南、劉政会、唐倹、李勣、秦瓊

東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア文化圏の形成

唐の建国と発展

隋末の混乱のなか、各地に蜂起した群雄を抑えて、中国を再統一したのは、太原たいげん(現山西省)で挙兵した李淵りえん李世民りせいみんの父子であった。
李淵(高祖(唐))、李世民はいち早く関中を占拠すると(618〜907)を建国し、長安を都と定めた。
高祖(唐)の時代、各地に割拠した群雄(河北の竇建徳とうけんとく王世充おうせいじゅうなど)はかなりの勢力を保っていたが、次子李世民の活躍によってしだいに平定されていった。
626年、李世民は兄の皇太子・李建成りけんせいをクーデターによって打倒(玄武門の変げんぶもんのへん)、第2代皇帝太宗(唐)に即位し、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。
太宗(唐)は国内においては、諸制度を整備して唐(王朝)国家体制の基盤を確立し、対外的には、最大の強敵であった東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗てんかがんの称号を贈られるなど、大いに唐(王朝)国力を伸張させた。
このため太宗(唐)の治世は、古来より貞観の治じょうがんのちと称されて讃えられている。

貞観の治:「房・杜」と並び称された名宰相房玄齢ぼうげんれい杜如晦とじょかい、太宗(唐)に直言をはばからず「天子の鏡」と称された魏徴ぎちょうら、なみいる名臣に支えられた太宗(唐)の治世は、『貞観政要じょうがんせいよう』という書物に活写されている。
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7世紀おわりの世界地図 ©世界の歴史まっぷ

太宗(唐)から次の高宗(唐)の時代は、唐(王朝)第一の盛時であり、唐は世界的な大帝国へと発展していった。
高宗(唐)時代には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
唐は、領土内の異民族に対しては、それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて、間接的に諸部族を支配する羈縻政策きびせいさくを採用し、これら諸部族に対する統治・監視機関として、辺境に六都護符(安西・北庭・安北・単于・安東・安南)を設置した。

唐の文化
儒学

分裂した魏晋南北朝時代のあとをうけて唐代になると、これまでおこなわれた諸解釈(訓詁学くんこがく)を整理統一しようという気運がおこった。太宗(唐)の指示をうけた孔頴達こうえいたつは、『五経正義ごきょうせいぎ』を編纂して公式の解釈を定め、この書は科挙のテキストとして尊重された。しかし、唐の科挙において経書の解釈はそれほど重視されず、また『五経正義』成立の結果、これ以外の解釈は認められないこととなったため、唐代の儒学は全般的に停滞した。

書道

唐では書芸が尊重され、科挙にも明書(明字)科がおかれ、さらに官僚の選考基準にも「書」の審査があり、筆跡が重んじられた。唐初は六朝時代の王羲之おうぎしの書風が尊ばれ、これを伝える欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなんは、太宗(唐)に招かれて貴族の子弟に楷法を教授した。この2人に褚遂良ちょすいりょうを加えて初唐の三大家と呼ぶ。

唐の混乱

7世紀末になると、唐は内部から動揺しはじめた。則天武后そくてんぶこう(位690〜705)は、太宗(唐)の後宮から高宗(唐)の皇后となり、高宗の晩年にはかわって政務を執り行うようになった。武后は、高宗(唐)が没すると、すでに即位していた実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗えいそう(唐)をも退位させてみずから帝位につき、国号も唐にかえてと称した(武周革命ぶしゅうかくめい)。

諸地域世界の交流

東西文物の交流

人物の往来
玄奘

すでに唐の治世は安定し、積極的に対外進出を目指そうという時代であり、玄奘は、仏教保護の国策と相まって太宗(唐)の保護を受けて、国家的事業というべき翻訳事業に着手した。彼の居住した大慈恩寺にはインドから持ち帰った啓典を収めるために塔が建てられた。これが現代まで残っている大雁塔だいがんとうであり、西安のシンボルともなっている。

アジア・アメリカの古代文明

インドの古代文明

諸王国の抗争

グプタ朝の崩壊後、分裂していた北インドを再び統一したのはハルシャ・ヴァルダナ戒日王かいにちおう)である。彼は都をカニヤークプジャ(カナウジ)におき、諸王侯のうえに君臨するという封建的体制を採用してたくみに統治した(ヴァルダナ朝)。しかしこの王国は短命で、ハルシャの死とともに崩壊した。ハルシャはヒンドゥー教・仏教の熱心な保護者としても知られる。また文芸・学問を奨励し、みずからもサンスクリット語のすぐれた戯曲や詩を書いている。この王の治世にナーランダー僧院で仏教を学んだ中国僧の玄奘げんじょうは、王に招かれ厚遇を受けた。その旅行記『大唐西域記』には、国内の平和と繁栄の模様が記されている。ハルシャと太宗(唐)との間には使節の交換がおこなわれ、唐朝からは王玄策おうげんさくが派遣された。

宗室

后妃

  • 長孫皇后
  • 韋貴妃、楊淑妃(隋煬帝の公主であり、李元吉の元妻)、殷徳妃、劉賢妃
  • 徐賢妃(徐恵)
  • 楊婕妤
  • 蕭美人
  • 崔才人、蕭才人、武才人(武則天)、王氏、刀人高恵通

子女

男子
  1. 廃太子李承乾 (恒山王あるいは常山王)
  2. 楚王李寛
  3. 王李恪 (鬱林王)
  4. 魏王李泰 (濮王)
  5. 斉王李祐 (廃されて庶人となる)
  6. 王李愔
  7. 蒋王李惲
  8. 越王李貞
  9. 晋王李治 (高宗(唐))
  10. 紀王李慎
  11. 江殤王李囂
  12. 代王李簡
  13. 趙王李福
  14. 曹王李明
女子
  1. 襄城公主(蕭鋭に降嫁し、また姜簡に再嫁した)
  2. 汝南公主(早世した)
  3. 南平公主(王敬直に降嫁し、また劉玄意に再嫁した)
  4. 遂安公主(竇逵に降嫁し、また王大礼に再嫁した)
  5. 長楽公主李麗質(母は長孫皇后。長孫沖に降嫁した)
  6. 予章公主(幼い頃に母を失い、長孫皇后に養育された。唐義識に降嫁した)
  7. 比景公主(柴令武に降嫁し、のちに自殺させられた。比景公主に追封された)
  8. 普安公主(史仁表に降嫁した)
  9. 東陽公主(母は長孫皇后。高履行に降嫁した)
  10. 臨川公主(母は韋貴妃。周道務に降嫁した)
  11. 清河公主李敬(字は徳賢。程懐亮に降嫁した)
  12. 蘭陵公主李淑(字は麗貞。竇懐悊に降嫁した)
  13. 晋安公主(韋思安に降嫁し、また楊仁輅に再嫁した)
  14. 安康公主(独孤謀に降嫁した)
  15. 新興公主(長孫曦に降嫁した)
  16. 城陽公主(母は長孫皇后。杜荷に降嫁し、また薛瓘に再嫁した)
  17. 合浦公主(高陽公主)(幼い頃に母を失い、長孫皇后に養育された。房遺愛に降嫁し、のちに自殺させられた)
  18. 金山公主(早世した)
  19. 晋陽公主李明達(字は明達。母は長孫皇后。12歳で夭折した)
  20. 常山公主(降嫁せず、顕慶年間に亡くなった)
  21. 新城公主(母は長孫皇后。長孫詮に降嫁し、また韋正矩に再嫁した)

Wikipediaより

太宗(唐)が登場する作品

「隋唐演義」

隋唐演義 太宗(唐)
李世民 「隋唐演義」©浙江永楽影視制作有限公司

隋(王朝)功臣・李淵の次子。楊広が李一族に刺客を送ったとき、秦瓊に危機を救われ、家族ともども深く恩に感じる。兄弟の中でもっとも人品にすぐれており、楊広から無理な日程で離宮の建設を命じられた時は智恵をしぼって間に合わせ、処罰を免れた。楊広が死ぬと李淵が唐を建国し、王世充ら群雄を倒して世を平定。秦瓊、徐茂公、羅成、程咬金、尉遅恭は李世民の臣下となった。

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太宗(唐)
太宗(唐)「武則天-The Empress」(C) 2014 ZheJiang Talent Television & Film Co., Ltd. All Rights Reserved.

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同時代の人物

中臣鎌足(614〜669)

もとは神官。唐への留学経験者について儒学や兵法を学ぶ。蹴鞠を通じて中大兄皇子と懇意になり、大化の改新では中心的役割を務める。晩年、藤原姓を賜る。

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