徳川吉宗 とくがわよしむね( A.D.1684〜A.D.1751)
江戸幕府8代征夷大将軍(在職1716〜1745)。紀伊徳川光貞の四男。初めは越前国丹生郡に3万石を領したが、兄が相次いで死んだため1705年紀州藩主に迎えられ、さらに将軍家継の死後徳川宗家を継ぎ、享保1(1716)年将軍宣下。享保の改革は、文武の奨励、法令の編纂、人材登用、新田開発、貨幣改鋳など多方面にわたる実績を残し、幕府中興の英主と仰がれた。しかし、改革も治世後期には成果が上がらず、家重に家督を譲ってからは大御所と呼ばれた。
徳川吉宗
(在位1716〜1745)
- 1719 相対済し令
- 1720 漢訳洋書輸入制限を緩和
- 1721 目安箱設置
- 1722 上げ米の実施、小石川養生所設置
- 1723 足高の制
- 1730 堂島の米市場公認
- 1732 享保の飢饉
- 1742 公事方御定書の制定
主な幕僚:町奉行大岡忠相、侍講荻生徂徠・室鳩巣
江戸幕府8代将軍(在職 1716~45)。紀伊徳川光貞の四男。母は巨勢氏。前名は頼方。院号は有徳院。初めは越前国丹生郡に3万石を領したが、兄が相次いで死んだため宝永2(1705)年紀州藩(→和歌山藩 )主に迎えられ、さらに正徳6(1716)年将軍家継の死後徳川宗家を継ぎ、享保1(1716)年8月 13日将軍宣下。吉宗の享保の改革は、「諸事権現様(家康)定め通り」と宣言して実行された。文武の奨励、法令の編纂、人材登用、新田開発、貨幣改鋳など多方面にわたる実績を残し、幕府中興の英主と仰がれた。しかし、改革も治世後期には成果が上がらず、家重に家督を譲ってからは大御所と呼ばれた。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
御三家から誕生した英主、江戸幕府の中興の祖
開幕100年、行きづまる幕政
徳川吉宗が8代将軍となった頃、幕政は行きづまっていた。側用人が老中を超える権力を握り、将軍の権威は下り坂である。貨幣経済の発達により出費は増える一方、新田開発は限界に達し租税の増加は見込めない。そのうえ、社寺の造営や大奥の華美、多数の旗本の登用などの先代までの散財がたたり、幕府
の財政はほぼ破綻していた。吉宗は早速改革に着手する。先代に権勢を誇った間部詮房や新井白石を退けて将軍親政を行う。質素倹約を奨励し、思い切った年貢増徴策も下した。それまで元禄繁栄の余韻の中で安穏と暮らしていた幕臣や庶民にとって、心地よい政策ではなかったが、幕府財政の再建には避けては通れない道だった。吉宗自身も先頭に立って質素倹約に努め、着物は襦袢を用いず、食事は一日二食で一汁三莱を守った。そのほか役職によって在任中の禄高を追加する「足高の制」を制定し、家格や年齢に関係なく優秀な人材を登用。江戸城の評定所前には「目安箱」を設置し、庶民からの直訴を募った。吉宗のこれら一連の改革を「享保の改革」という。吉宗がこうした改革をなし得たのには、紀州徳川家という庶流の出身であったこと、紀州藩主として実務の経験がすでにあったことなどが挙げられよう。吉宗の手によって、揺らいでいた幕藩体制は立ち直り、財政にも余裕ができた。一方、「上の御数奇な物 御鷹野と下の難儀」という落首が詠まれたように、庶民は窮屈な生活を強いられた。
幕藩体制の展開
元禄文化
儒学の興隆
仁斎らの古学に啓発された江戸の荻生徂徠(1666〜1728)は、治国=政治を重視して、礼楽·制度をととのえることの重要性を説いた。柳沢吉保に仕えたあと、徂徠は将軍吉宗の諮問にこたえて『政談』を著し、都市の膨張をおさえ、武士の土着などを主張した。
幕藩体制の動揺
幕政の改革
享保の改革
1716(享保元)年に将軍家継が8歳で死去し、家康以来の宗家(本家)が途絶え、三家の一つである紀伊藩主の徳川吉宗(1684〜1751)が8代将軍についた。吉宗は、家康のひこ孫にあたるが、30年近くの将軍在職の間、「諸事権現様(徳川家康)御掟の通り」と家康時代への復古を掲げて幕政の改革につとめた。これを享保の改革と呼んでいる。
綱吉以来続いた柳沢吉保・間部詮房・新井白石らによる側近政治のため、幕政から排除された譜代大名らは、不満を強めていた。彼らの期待を担って将軍となった吉宗は、譜代大名からなる老中・若年寄を重視するとともに、新たに側近である御側御用取次を設け、老中らと側近を巧みに使った。また、旗本の大岡忠相(1677〜1751)や東海道川崎宿の名主であった田中丘隅(1662〜1729)らの有能な人材を登用した。さらに、荻生徂徠に政治のあり方を諮問し、室鳩巣(1658〜1734)らの儒学者を侍講に用い、将軍が先頭に立って改革に取り組んだ。なお、人材登用のために足高の制を設けた。
改革の重点は幕府財政の再建におかれ、その前提として民政・財政を担当する勘定奉行所の整備と強化をはかり、地方で農村支配に優れた実績をあげた者を勘定方役人や代官に積極的に取り立てた。また、全国の人口調査や田畑の耕地面積の調査など、政治に必要な客観的な数値の把握にもつとめた。吉宗は、まず厳しい倹約令を出して支出の減少をはかるとともに、収入の増加策を打ち出し、1722(享保7)年に上げ米を実施し、ついで抜本的な増収策として、新田開発、年貢の増徴、商品作物の奨励が行われた。1722(享保7)年に、江戸日本橋に高札を立てて町人開発新田を奨励し、商人資本の力を借りて新田開発を進めようとした。それと同時に国役により、紀州から連れてきた土木技術者などを使って大河川流域の耕地の安定をはかった。
年貢増徴策としては、検見法を改め定免法を広く取り入れた。定免法は、一定期間同じ年貢率を続け、凶作以外には年貢率をかえないため、年貢最が安定し、しかも一定期間がすぎると年貢率を引き上げることもできた。西日本の幕領で盛んになった綿作など、商品作物の生産による富の形成に着目し、勘定奉行の神尾春央(1687〜1753)らが畑地からの年貢増収をはかった。この結果、幕領の年貢収納高は上昇し、平年作の年平均が140万石であったものが、1727(享保12)年には160万石、1744(延享元)年には180万石に達した。商品作物としては、菜種·甘藷・さとうきび·櫨·朝鮮人参などの栽培を奨励し、青木昆陽(1698〜1769)を登用して甘藷の栽培を研究させたことは有名である。そのほか、新しい産業の開発を進める殖産興業のため、実学を奨励し、漢訳洋書の輸入制限を緩和した。
司法制度の整備と法典の編纂により、法に基づく合理的な政治を進めようとしたことも、この改革の特徴である。これまでの裁判の判例を集めて、裁判や刑罰の基準とするために、1742(寛保2)年「公事方御定書」を制定し、1744(延享元)年に幕初以来の法令を集大成して「御触書寛保集成」を編纂した。この司法にかかわって有名なものの一つに、1719(享保4)年の相対済し令がある。都市と商業の発達により、商取引や金銀貸借などの金銭に関する訴訟(金公事)が増加したため、幕府は訴訟を受理せず、当事者間で解決させようとした。しかし激しい反発を招き、10年後の1729(享保14)年に廃止された。なお、幕府はこれ以降、仲介人が間に立ち、当事者同士の話し合いで紛争を調停する内済という方式を奨励した。この時期、最も問題となっていたのは物価問題で、米の値段が下がってもほかの諸物価は下がらない、「米価安の諸色(米以外の諸商品)高」という状況への対処であった。1724(享保9)年に物価引下げ令を出し、ついで流通と物価を統制する仕組みとして、22品目の取扱い商人に組合・株仲間をつくらせた。さらに、1730(享保15)年には、大坂堂島の米相場を公認し、米価統制の核に据えようとした。しかし実効があがらなかったため、1736(元文元)年にそれまでの貨幣政策を転換させ、正徳金銀の品位(金銀の含有率)を半分に減らした元文金銀を鋳造し、物価の安定に効果をあげることができた。
農村政策として注目されるものに、1721(享保6)年の流地禁止令がある。田畑の質入れ期限がすぎても借金を返済できないため質流れ(流地)となり、百姓層の分解が進行してきたことへの対処である。これを徳政令とみなした百姓は、流地の返還を地主に迫り、越後頸城郡、出羽村山郡などで騒動(質地騒動)をおこした。結局、幕府は1723(享保8)年にこの法令を撤回してしまった。
都市政策が打ち出されたのも、この改革の特徴であった。明暦の大火以後も大きな火災の相ついだ江戸に、延焼を防ぐため広小路や空き地などの火除け地が設けられ、土蔵造も奨励された。さらに、いままでの定火消に加えて、町方の消防制度として「いろは」47組(のちに48組)の町火消がつくられた。また、1721(享保6)年に評定所門前に目安箱がおかれ、広く庶民や浪人たちの意見を求めた。その意見のなかから、小石川薬園に貧民の救済施設として小石川養生所が設けられた。
文教政策にも力が入れられ、5代将軍綱吉や新井白石は、儒教を幕府政治の基礎に据えようとし、8代将軍吉宗もまた儒教を政治に活用しようとした。湯島聖堂にあった林家の塾の講義は人を広く庶民にまで聴講することを許可し、さらに儒教の徳目を説いた『六諭衍義大意』を板行し、儒教による民衆教化につとめた。