徳川家光 とくがわいえみつ( A.D.1604〜A.D.1651)
江戸幕府第3代征夷大将軍(在位1623〜1651)。参勤交代の制度化をはかり、鎖国体制を完成させるなど、幕府制度の整備に尽力した。1634年からは、日光東照宮の大造営に巨費を投じた。
徳川家光
(在位1623〜1651)
幕藩体制を確立した三代にわたる武断政治
「生まれながらの将軍」という自負
「東照宮(家康)が天下を平定なさるに際しては諸侯の力を借りた。秀忠公ももとはおのおの方の同僚であった。わたしは生まれながらの将軍であるから前二代とは格式が違う。したがっておのおの方の扱いは以後、家臣同様である」2代将軍秀忠が死去し、名実ともに家光の治世になったとき、家光は大名たちの前で宣言したという。とはいえ、重臣の意見を尊重した合議制を継承するなど独裁的にはならず、一方で「武家諸法度」を改訂して諸大名に参勤交代を義務づけ、幕藩体制を揺るがす大名に対しては、外様、譜代、親藩を問わず容赦なく改易するなど、硬軟あわせて政治の指揮をとった。幕藩体制を磐石にした名君。後世、家光はそう称されるようになる。
スムーズにいかなかった将軍就任
家光が将軍に就任したのは1623年(元和9)、20歳のときである。秀忠の嫡子ではあったが、将軍就任はスムーズには運ばなかった。実母のお江与(崇源院)が、家光ではなく弟の徳川忠長を偏愛し、父徳川秀忠もそれにならったのである。父母から疎まれた家光は自害を図ったことさえあった。やがて崇源院は、家光の廃嫡まで思いいたるようになったという。幕府は揺れた。後継問題がこじれれば、徳川幕府そのものが破綻しかねない。これを憂慮したのが、家光の乳母春日局である。春日局は伊勢参りに行くという口実で江戸城を出て、駿府に隠居していた徳川家康のもとを訪ね直訴、崇源院の不当性を主張した。 これを聞き入れた家康の采配によって、家光の地位はようやく確定した。家光はこののち、自分をかばってくれた乳母春日局を慈母として愛し、祖父家康を崇敬して神に奉った。
名君への道 内政の充実と外交政策
父・秀忠は江戸城西の丸に隠居したが、大御所として政治には関与していた。秀忠存命中の将軍家光の政務は、家康存命中の秀忠将軍のときに倣って、何事も前将軍や重臣たちの意向に添うかたちでとり行われた。秀忠が死に、家光の親政が始まる。家光は前代の政治手法を継承し、重臣による合議制を基本とした「六人衆(のちの若年寄)」と呼ばれた松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗など優秀な重臣たちにも恵まれ、家光は名君への道を歩む。1万石以上の者を大名、それ未満の者を旗本とする身分制度を確立したのも家光である。内政を充実させるとともに、家光は外交政策にも積極的に取り組む。家光が推進したのは鎖国体制の完成であった。宣教師による内政干渉への危惧、一部の海外貿易の幕府独占、西欧列強からの侵略回避などを目的とした政策とされている。1633(寛永10)年に、海外在住の日本人の帰国を禁止した。その2年後には日本船の海外渡航を全面禁止。続いてポルトガルトガル船の来航を禁上し、初めての鎖国令が出されて8年後、オランダ商館を長崎の出島に移築して鎖国令体制を完成させた。以後はオランダと清(王朝)のみを貿易相手国とし、幕府の鎖国は約200年間も続くのである。
家光の治陛は、こうして順調に進んでいったが、1637年、大事件が起こる。重税に苦しむ肥前島原と天草の領民と、改易されたキリシタン大名の旧家臣とが結びつき、反乱を起こしたのである。天草四郎(益田時貞)を首領に据えた、島原の乱である。家光は重臣の板倉重昌らを島原に派遣するとともに、周辺地域の大名には即刻帰国を命じた。4か月後、ようやく乱は鎮圧。武家諸法度で禁じた領外出兵の禁上が、初期の対応を遅らせたことを知った家光は、すぐさま法度を改訂した。
徳川武断政治の終焉 三代目の最後
せて社会不安の火種にもなった。ただ、徳川幕府の基礎を固める初期段階においての強権執行は不可避な面もあり、三代にわたる武断政治を経て、初めて柔軟な文治政治が行なえたともいえるのかもしれない。徳川幕藩体制を盤石にした名君と謳われた家光は、1650(慶安3)年、体調を崩し、世継ぎの徳川家綱に諸儀礼を代行させた。翌年、父秀忠の庶子で、家光の異母兄弟にあたる会津藩主保科正之に、幼い家綱の庇護を託して死去した。遺骸は、遺言により寛永寺に移されて、のちに敬愛してやまなかった祖父家康が眠る日光に葬られた。
陽明門:祖父・家康への敬意の念が東照宮の大改築へ 東照大権現の神号をもつ祖父家康の墓所、すなわち日光東照宮を大改築するにあたって、家光は陽明門をはじめ豪華絢爛な社殿を作らせた。その独特な建築様式は権現造と呼ばれる。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
幕藩体制
1623(元和9)年将軍職を徳川家光(1604-51)にゆずった秀忠は、大御所として幕府権力の基礎固めを行い、1632(寛永9)年に死去した。3代将軍家光は、肥後の有力外様大名加藤忠広(清正の子、1601-53)を改易して出羽庄内に配流し、そのあとに小倉から細川氏を転封し、小倉には譜代の小笠原氏を封じて、九州も将軍の意が及ぶ地域とした。また徳川忠長(家光の弟、駿河大納言、1606-33)も改易し、家光時代に外様29名、一門・譜代19名を改易して力による大名統制を進めた。
さらに1634(寛永11)年、家光は30万余りの軍勢を率いて上洛したが、これは全国の譜代から外様にいたる大名に、統ーした軍役を賦課して将軍権力を示したものであった。大名・旗本は領知石嵩(御恩)に応じて一定数の兵馬を常備し、将軍の命令で出陣する義務(奉公)を負っていた。1616(元和2)年に出された軍役規定は、1633(寛永10)年に家光によって改定された。そこでは1000石の旗本は鑓2本・弓l張・鉄砲l挺で総勢23人の出陣を、1万石の大名は馬上で出陣する武士10騎、鉄砲20挺・弓10張・鑓30本・旗2本などと規定された。平時には江戸城などの修築や河川の工事(普請)などを負担した。改易以前の肥後熊本52万石の加藤忠広は、1622(元和8)年、江戸城本丸石垣の御手伝普請に約5000人の人夫を半年間動員した。このうち1200人が藩抱えの足軽で、3400人が国元の百姓、400人が水夫であった。このように大名に課された軍役は百姓などに転嫁され、農村を疲弊させることにつながった。
家光は1635(寛永12)年、武家諸法度を発布し、諸大名に遵守を厳命した。そのなかで大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務づけ、妻子の江戸居住を強制した。参勤交代は毎年4月を交代期として、全国の大名の半ばが江戸に、半ばが国元にいるという制度だが、関東の大名は半年交代、対馬の宗家は3年に1回の参勤であり、水戸家は常に江戸藩邸に詰めた。大名はこれによってばく大な出費をさせられたが、江戸と街道筋の宿場がにぎわい、交通が発達した。江戸に参勤した大名たちは、軍役として江戸城諸門の警衛や火事の際に出動するなどの役務を担った。
幕府と藩の機構
幕府の職制は、3代将軍家光のころまでに整備された。それ以前の家康・秀忠時代は、三河以来の譜代門閥(大久保忠隣・酒井忠世·土井利勝ら)が、年寄という立場にあって将軍や大御所の側近を固め、重臣となった。このほか僧の天海(1536?〜1643)・崇伝、儒者の林羅山(1583〜1657)、商人の茶屋四郎次郎(1542〜96)・後藤庄三郎らが家康の側近として諮問にこたえた。
家光時代の1635(寛永12)年前後に、老中・若年寄・大目付・目付・三奉行といった職制が定まった。幕政の中枢にあった年寄は老中と呼ばれ、定員4人で幕政を統轄するようになった。井伊家など特定の譜代大名がなった最高職の大老は常置ではなく、重要事項のみ合議に加わった。また、老中を補佐し旗本を監督する若年寄(4人)、大名を監察する大目付、旗本を監察する目付がおかれた。さらに、寺社の統制などにたずさわる寺社奉行(4人)や幕領の財政と行政にあたる勘定奉行(4人)、江戸の市政を担当する町奉行(南北2人)の三奉行が実務を処理した。以上の幕府の要職は月番制(1カ月交代で勤務)をとり、重要判断は合議制をとった。また、老中・三奉行・大目付らは評定所を構成して、国境い訴訟など重要な裁判を担当した。
朝鮮と琉球・蝦夷地
琉球王国
薩摩藩の支配を受けつつも、清の冊封を受けるかたちでの二重の外交体制を保つことになった琉球は、朝貢のための使節を中国に派遣した。同様に1609(慶長14)年以来、琉球を支配する薩摩藩に対しても、琉球は年頭に年賀の使節を派遣し、鹿児島城下に設けられた琉球館に滞在した。琉球館には、通常は琉球中山王府の役人が常駐して、琉球からの品々の搬入の管理などにあたっていた。
琉球からは北京同様に、遠く離れた江戸幕府にも使節が派遣された。1634(寛永11)年、将軍家光就任を祝う琉球の慶賀使が二条城に赴いた。これ以後、将軍の代がわりごとに慶賀使は江戸に下った。また1644(正保元)年からは、琉球の中山王が即位するたびに、江戸幕府に即位を感謝するという意味の謝恩使と呼ばれる使節を送った。