徳川家慶 とくがわいえよし( A.D.1793〜A.D.1853)
江戸幕府12代征夷大将軍(在職1837〜1853)。家斉の2男。大御所家斉の死後、水野忠邦に天保の改革を実施させた。忠邦の失脚後は阿部正弘を老中に任用して時局に対処した。国交を求めるペリーの来航に対する対応で、幕府の威光が衰える中で死去。
徳川家慶
(在位1837〜1853)
主な幕僚:老中首座・水野忠邦
12代将軍(在職1837〜1853)。家斉の2男。水野忠邦に天保の改革を実施させた。忠邦の失脚後は阿部正弘を老中に任用して時局に対処した。
鎖国の終焉とともに世を去った将軍
江戸幕府12代将軍。家斉の次男。45歳で将軍職を継ぐ。温良謹慎な性格を評価されたが、政治の実権は家斉が任じた水野忠邦にあった。「天保の改革」を断行させ、幕政の安定を図った。ペリーの来航での国交の求めに対する対応で、幕府の威光が衰える中で死去。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
1837(天保8)年、外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し、退去させた。翌年、オランダ商館長は、外国船はイギリス(実はアメリカの商船で誤って伝えた)のモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も問わずに打ち払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論』を陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英(1804〜50)は『戊戌夢物語』を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の打払い政策を厳しく批判した。幕府は、1808(文化5)年の白河・会津両藩による江戸湾防備の体制をすでに廃止していたが、モリソン号事件を契機に再び江戸湾防備の検討を始めた。幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵 1801〜55)と洋学に反感をもつ目付の烏居耀蔵(1796〜1873)に別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋礫もあって鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していたとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で、渡辺華山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処した。これを蛮社の獄と呼んでいる。
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |
文化・文政時代
大御所時代(1793〜1841)
特色 | 11代将軍家斉の治世 大御所としても実権を握る(大御所時代) |
政治と政策 | 老中水野忠成の賄賂政治 → 政治の腐敗 奢侈な生活 → 財政破綻・貨幣改鋳の利益 関東農村の治安混乱(無宿人の増加) → 関東取締出役の設置(1805) → 寄場組合の結成(1827) |
結果 | 放漫な政治 → 商品貨幣経済・農村工業の進展、都市人口の増加 天保の飢饉(1833〜39頃) → 物価騰貴、生活の破綻 → 百姓一揆・打ちこわしが頻発 大塩の乱(1837):「窮民救済」を掲げ、大坂で挙兵 → 幕府の威信は失墜 化政文化の開花:江戸を中心に開花、町人文化の爛熟 |
松平定信が老中を辞職したのち、文化・文政時代を中心に11代将軍家斉が在職し、1837(天保8)年に将軍職を家慶(1793~1853)にゆずったのちも、大御所(前将軍)として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。これにちなんで、主に文政から天保の改革以前の間を大御所時代とも呼んでいる。定信の辞職後も、定信が登用した「寛政の遺老」と称される松平信明(1760- 1817) らの老中たちにより、寛政の改革の路線が引き継がれていたが、1818(文政元)年に水野忠成(1762~1834)が老中になると、幕政は大きく転換した。寛政の改革以来の財政緊縮政策は、蝦夷地経営や将軍家斉の子女の縁組みなどの臨時経費の増大により、行き詰まった。そこで幕府は、総計で金4819万7870両と銀22万4981貫にのぼる品位を落した文政小判などの貨幣を大量に鋳造し、550万両にのぼる利益を得た。貨幣改鋳は幕府財政を潤したが、質の悪い貨幣が大量に流通したため物価は上昇し、物価問題が幕政上の重要な課題となった。しかし、この政策は商品生産を刺激し、商人の経済活動もいっそう活発となり、都市を中心に化政文化と呼ばれる庶民文化の花が開くことにもなった。
天保の改革
天保の改革 (1841〜43, 12代将軍家慶・老中水野忠邦)
特色 | 復古理想主義 | 享保・寛政の改革にならい、支配体制を揺るがす内憂外患に対応するため、幕府権力の強化をめざす |
政策 | 生活緊縮 | 倹約令(1841 ぜいたく品や華美な衣装を禁止) 歌舞伎の江戸三座を場末の浅草に移転を命じる(1841) 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰(1842) |
社会・経済統制 | 株仲間の解散(1841) 貨幣改鋳。棄捐令 人返しの法(1843 貧民の帰村を強制する) |
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政治統制 | 西洋砲術の採用(1841 高島秋帆が徳丸が原で練兵) 天保の親水給与令(1842 異国船打払令の緩和) 印旛沼の干拓工事 → 水野の失脚で中止(1843) 三方領知替え(1841 撤回) 上知令(1843 江戸・大坂周辺を直轄地とする → 撤回) |
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結果 | 諸層の不満が激化し、改革に失敗。幕府権力は衰退 |
幕府は、大規模な凶作や飢饉、大塩の乱などの騒動、また深刻化する財政難、そしてモリソン号事件やアヘン戦争の情報などに示された、幕藩体制を揺るがす内憂外患の本格的な危機に対処するため、1841(天保12)年、家斉の死後、将軍家慶の信任を得た老中水野忠邦(1794-1851)を中心に天保の改革を行った。
「享保寛政の御政治」への復古を改革の方針とし、あらゆる階層に厳しい倹約令と風俗統制令を出した。高価な菓子・料理や華美な衣服などを禁じ、江戸の庶民に人気が高く町奉行支配地に211軒あった寄席を15軒に減らし、さらに江戸歌舞伎三座を風俗を乱す元凶として場末に移転させ、役者が市中を歩くときは編笠をかぶらせた。出版統制令により、すべての出版物を幕府が検閲し、幕府に不都合な書物を取り締まるとともに、錦絵を禁止し、風俗に悪影響を与えるとして人情本作者の為永春水(1790-1843)、合巻作者の柳亭種彦(1783-1842)らを処罰した。
ー方、江戸の人口を減らし、農村の人口をいかに増やすかが大きな課題であった。そこで人返しの法を出して百姓が離村して江戸の住民となることを禁じ、出稼ぎを領主の許可制とした。さらに、すでに農村をでて江戸に住んでいる者でも、長年江戸に住み、一家を構えている者以外に帰郷を命じ、それを徹底させるため人別改めを強化した。
また、深刻な物価騰貴は、十組問屋などの株仲間が商品の流通を独占し、物価の不正な操作を行っているのが原因であるとして、株仲間の解散を命じた。さらに価格操作を行う恐れのある仲間や組合を解散させ、問屋の名称すら使うことを禁止して、仲間以外の商人たちの自由な取引により物価が下落することを期待した。しかし、物価騰貴の原因は、品位の劣る貨幣の大量改鋳と商品流通の構造変化によるものであったため、ほとんど効果はなかった。全国の生産地から大坂市場に集荷され、大坂二十四組問屋から江戸十組問屋へ送られるという江戸時代の商品流通の基本構造が、生産地から大坂に商品が届く前に下関や瀬戸内海沿岸のほかの場所で売買されたり、廻船業者が地方の商人と結んで江戸の仲間外商人や江戸以外へ直接に運んだりすることなどにより動揺していたのである ❶。物価騰貴は旗本や御家人の生活を圧迫したので、幕府は札差からの借金を無利息·年賦払いで返済させることにした。このような生活の細部に及ぶ厳しい統制と倹約令による不景気は、人々の不満を高めた。
幕府は、1840(天保11)年に川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ移す、三方領知替えと呼ぶ転封を命じた。当時、家斉の子女の縁組み先の大名を優遇する政策がとられ、川越藩も家斉の子を養子にしたことを利用して豊かな地への転封を運動した結果であるとして、有力外様大名などが強く反発した。庄内藩領民の激しい転封反対運動もあって、この転封は撤回された。幕府が大名に転封を命じながら実行できなかったことは空前の出来事であり、幕府の実力低下、幕府に対する藩権力の自立化を示す結果となった。そこで水野忠邦は、将軍·幕府の権威を再強化するため、巨額の費用をかけて67年ぶりに将軍の日光社参(日光東照宮に参詣すること)を挙行した。そのうえで1843(天保14)年に上知令を出し、江戸・大坂周辺の大名や旗本の支配地合わせて約50万石を直轄地にした。比較的豊かで年貢収入の多い江戸・大坂周辺を取り上げ、年貢収入の劣る代地を与えることによって財政収入を増やし、また幕府にとって政治的·軍事的に重要な江戸・大坂周辺を直轄することによってこの地域の支配を強化し、対外的危機ヘの対処もはかろうとした。しかし、諸大名や旗本が強く反発したため上知令は実施できず、忠邦は失脚し、改革自体も失敗に終わり、幕府権力の衰えを如実に示した。
三方領知替え
3大名を玉突き式に移す譜代大名の転封の一形式で、江戸時代を通じて7回行われている。1840(天保11)年の三方領知替えは、川越藩松平家が財政窮乏を打開するため、大御所家斉の子を養子にもらった有利な条件を利用して豊かな地への転封を画策した結果であった。そのため、庄内藩領民は松平家の入封をきらい、酒井家がとどまることを求めて老中に直接訴えたり、仙台藩そのほかに歎願するなど激しい転封阻止運動を展開した。外様大名などが領知替えに反対する動きを示したため、将軍家慶は領知替えの強行により大きな混乱を生むことを避けるため、老中水野忠邦の強い反対を押し切って中止した。