徳川慶喜 とくがわよしのぶ (一橋慶喜 A.D.1837〜A.D.1913)
江戸幕府15代将軍(在職1866〜67)。水戸藩主徳川斉昭の7男。1847年に一橋家を継ぎ、将軍継嗣問題で一橋派におされたが実現せず。文久の改革では将軍後見職につき、1864年に朝廷を守る禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された。1866年、将軍に就任、翌年大政奉還を行なった。
徳川慶喜
(在位1866〜67)
15代将軍(在職1866〜67)。水戸藩主徳川斉昭の7男。1847年に一橋家を継ぎ、将軍継嗣問題で一橋派におされたが実現せず。文久の改革では将軍後見職につき、1864年に朝廷を守る禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された。1866年、将軍に就任、翌年大政奉還を行なった。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
政局の転換
ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信ら雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。
慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。
幕府の滅亡
第2次長州征討に失敗した幕府の権威は地に落ちたが、家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの協力を得て幕政の立て直しにつとめ、幕政改革を行った。中央集権的な政治体制を築くための職制の改変と、フランスから士官を招いての陸軍の軍制改革がその中心であった。
しかし、幕府は長州征討の処理をめぐって薩摩藩と衝突し、1867(慶応3)年、薩長両藩は武力倒幕を決意した。武力倒幕の機運が高まるなか、公武合体の立場をとる土佐藩では藩士の後藤象二郎(1838〜97)と坂本竜馬とがはかって、前藩主の山内豊信を通して、将軍慶喜に倒幕派の機先を制して政権の奉還を行うように勧めた。慶喜もこの策を受け入れて、10月14日、大政奉還を申し出て、翌日、朝廷はこれを受理した。これは、将軍からいったん政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川氏を含む諸藩の合議による連合政権をつくろうという公議政体論に基づく動きで、これによって倒幕派の攻撃をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとするねらいが込められていた。
ところが、同じ14日、武力倒幕をめざす薩長両藩は、朝廷内の急進派の公家岩倉具視(1825〜83)らと連携して画策し、倒幕の密勅を引き出していた。大政奉遠後の政局は、薩長両藩の武力倒幕論に対抗して、土佐藩などの主張する公議政体論が台頭してきた。公議政体論とは雄藩連合政権論であるが、実質は将軍を議長とする諸侯会議の構想で、徳川氏の主導権を認める内容であった。薩長両藩は、この公議政体論をおさえて政局の主導権を握るため、両藩兵を集結させるとともに、12月9日に政変を決行、いわゆる王政復古の大号令を発し、徳川氏を除く新しい政府をつくった。
新政府は、幕府はもちろん朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設置した。ここに260年余り続いた江戸幕府は否定され、「諸事神武創業の始」に基づくことをかかげた、天皇を中心とする新政府が樹立された。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族・公卿と松平慶永や山内豊信らの諸侯10名、参与には公家からは岩倉具視、雄藩の代表として薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通、土佐藩からは後藤象二郎、福岡孝弟(1835〜1919)、ついで長州藩から木戸孝允・広沢真臣(1833〜71)らが任じられ、雄藩連合のかたちをとった。
その日の夜、京都御所の小御所で三職による小御所会議が開かれて徳川氏の処分が議論され、岩倉具視・大久保利通らの武力倒幕派が、松平慶永・山内豊信らの公議政体派を圧倒し、徳川慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じることを決定した。このため、慶喜は大坂城に引きあげ、新政府と対決することになった。