応天門の変
866(貞観8)年に起こった政治事件。
858(天安2)年、清和天皇が9歳で即位し、866(貞観8)年、藤原良房は、天皇の外祖父として正式に摂政となった。
応天門が放火され、深い学識と優れた政務能力によって異例の昇進をとげていた大納言伴善男は、左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言により無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
この事件は国宝『伴大納言絵詞』(国宝)に詳しく描かれている。
応天門の変
貴族政治と国風文化
摂関政治
藤原氏北家の発展
藤原氏は、鎌足やその子不比等が律令国家の建設に大きな役割を果たしたこともあって、他の氏族に比べて、早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。
他の氏族、例えば大伴氏などは、奈良時代になっても宮の守衛や軍隊の統率といった律令制以前からの氏としての職務に固執し、そのような職務に対する意識を強くもっていた。これに対して藤原氏は、鎌足や不比等などの功績や光明子の立后を背景に、国政運営の最高機関である太政官に数多くの公卿を送り込み、8世紀末には特に藤原宇合の子孫である式家が、藤原百川・藤原種継らを出して有力となった。
しかし9世紀初めの嵯峨天皇の時代になると、式家は平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として衰える。また同じころ、蔵人頭や検非違使の創設などによって天皇の権力が強まると、律令制以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係が消滅し、これにかわって、天皇との個人的な結びつきが貴族の朝廷での地位を左右するようになった。
この時代、「天皇との個人的結びつき」を支える要素としては、①文人としての教養、②管理としての政務能力、③天皇の父方の身内、④天皇の母方の身内、などがあった。
- ①は9世紀の漢文学隆盛の風潮のなかで、大学で紀伝道を納めた学生が、天皇に注目されて昇進をとげるというもので、9世紀後半、宇多天皇に重用された菅原道真がその代表である。
- ②は儒教的思想に裏打ちされた政治理念の持ち主や、実務的な官吏として優れた能力を発揮した者、国司・将軍として任地で功績をあげた者などが公卿の地位まで登りつめるというケースである。桓武天皇の時代では、征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂や徳政相論で藤原緒嗣と論争した菅野真道が著名で、仁明天皇に登用された伴善男もこのグループである。
- ③は嵯峨天皇がその皇子・皇女に源朝臣の姓を与えて(嵯峨源氏)以来、歴代の天皇がそれにならった「賜姓源氏」で、その出自の高さから多くの公卿を出すことになる。
- ④はいわゆる外戚である。9世紀前半には、藤原氏以外にも、桓武天皇の母を出した渡来系の和氏、嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子を出した橘氏などから、外戚であることによって高い地位につく貴族が現れた。
藤原良房は、娘の明子を道康親王の妃とし、親王が文徳天皇として即位すると、両者の間に生まれた惟人親王を皇太子に立て、858(天安2)年、わずか9歳で清和天皇として即位させる。ここに良房は、天皇の外祖父として実質的に摂政の役割を果たすようになった。良房は866(貞観8)年、正式に摂政となるが、同年には、その深い学識と優れた政務能力によって異例の昇進をとげていた大納言伴善男を、応天門の放火事件の犯人として失脚させた(応天門の変)。これは藤原氏による②のタイプの貴族の抑圧とみることができる。
その後、摂政の地位は養子の藤原基経に受け継がれるが、基経は884(元慶8)年、光孝天皇から関白の職を行うよう命じられ、887(仁和3)年、宇多天皇の即位直後におきた阿衡の紛議によってその地位を確立する。
891(寛平3)年、基経が死去すると、宇多天皇は基経の長男藤原時平とともに、当時文人・学者として名高かった菅原道真を抜擢し、道真は続く醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇った。しかし娘を宇多天皇の皇子の妃としたことが警戒され、901(延喜元)年、時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去した。これは藤原氏による①のタイプの貴族の抑圧とすることができよう。