拓跋珪 (道武帝)( A.D.371〜A.D.409)
拓跋珪は、南北朝時代(中国)の北朝北魏初代皇帝。華北を統一していた前秦の崩壊という激動にあたって、諸部族に推戴されて386年代王の位に就き、都を盛楽(内モンゴル)に定め、国号を魏と改めた(北魏)。敵対する五胡諸部族を平定し、後燕国の混乱に乗じて黄河以北の華北平原を征服。首都を平城に移し398年皇帝の位に就いた。
拓跋珪
台頭する鮮卑族の王朝北魏をおこす
中国は西晋による短い統一期間を経て、五胡十六国時代、さらには南北朝時代という分裂時代を経験する。五胡とは、5つの北方・西方民族をさし、拓跋珪の属する拓跋部は五胡の一つでである鮮卑族のなかの1部族である。時に華北を統一していた前秦の崩壊という激動にあたって、拓跋珪は諸部族に推戴されて代王の位に就き、その年のうちに都を盛楽(内モンゴル)に定め、国号を魏と改めた。曹魏と区別するため、これを北魏、後魏、拓跋魏などと呼ぶ。
拓跋珪は敵対する五胡諸部族を平定したのち、後燕国の混乱に乗じて、公称40万の大軍でもって中原になだれ込み、瞬く間に黄河以北の華北平原を征服した。次いで首都を平城に移し、皇帝の位に就く。拓跋珪は漢人名族出身の人材を重用するとともに、拓跋部の部族解散を断行して大人(族長)の部族民に対する支配権を剥奪し、部族民を国家の直接支配下に置くなど、中央集権国家の樹立を目指した。また仏教の受け入れにも積極的だった。
子女
- 明元帝(拓跋嗣) 北魏第2代皇帝
- 清河王(拓跋紹)
- 陽平王(拓跋煕)
- 河南王(拓跋曜)
- 河間王(拓跋脩)
- 長楽王(拓跋処文)
- 広平王(拓跋連)
- 京兆王(拓跋黎)
- 拓跋渾
- 拓跋聡
世界遺産
「雲崗石窟」の曇曜五窟
雲崗石窟 – 世界の歴史まっぷ
同時代の人物
巨大古墳
紀元5世紀前後、畿内では巨大古墳が数多くつくられた。前方後円墳のほかに前方後方墳、円墳、方墳という形があり、この違いは被葬者の階級によるものと考えられている。