文久の改革 A.D.1862〜
勅命により実施された幕政改革。島津久光が公武合体、雄藩連合を画策し、江戸に下って幕政改革を要求したことを機に実施。徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に任用。参勤交代制の緩和の緩和など。
文久の改革
1862年、勅命により実施された幕政改革。徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に任用。在府期間を3年1勤とする参勤交代の緩和や軍制改革などを行った。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
文久の改革
経過 | 1862年、勅命により実施された幕政改革。薩摩藩主島津忠義の父島津久光が、勅使大原重徳とともに江戸に下って幕政改革を要求したことを機に実施。公武合体、雄藩連合を画策した。 |
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政策 | 職制改革 | 政事総裁職:越前藩主・松平慶永 将軍後見職:一橋家・徳川慶喜 京都守護職:会津藩主・松平容保 |
政治改革 | 参勤交代制の緩和 隔年 → 3年に1度、在府は100日 妻子の帰国を許可 |
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軍制改革 | 西洋式軍制の採用 洋式陸軍の設置(洋式の歩・騎・砲3兵の設置、陸軍奉行が統轄) オランダへ留学生を派遣 |
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学制改革 | 学問所奉行の設置 蕃書調所 → 洋書調所として改編(翌63年に開成所) 西洋医学所 → 医学所と改称(1863) |
幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪(1745〜1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷·幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳(1801〜79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命した。また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保(1835〜93)をこれに任命し、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行った。