日清戦争
日清戦争 平壌の戦い (水野年方画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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日清戦争年表

1894年日本朝鮮中国(清)イギリスロシアフランスドイツ
2月甲午農民戦争
6月4日北洋通商大臣李鴻章-朝鮮出兵を指令
6月5日参謀本部内に史上初めて大本営を設置清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着
6月6日天津条約に基づき朝鮮出兵を通告
6月7日天津条約に基づき朝鮮出兵を通告
6月8日-12日陸兵2,400人を牙山に集結
6月10日公使大鳥圭介に海軍陸戦隊・警察官430人をつけ、首都漢城に入る。全州和約
6月15日伊藤内閣-出兵目的を「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更日清両軍の撤兵を要請
6月16日混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸。
6月21日日本の提案を拒否
6月22日御前会議
6月23日清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付(第一次絶交書)
6月25日400人を増派
6月28日条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せる
6月30日駐日ロシア公使が日本の撤兵を強く要求する公文を陸奥外相に渡す
7月9日「日本の撤兵」が前提として、総理衙門総領大臣(外務大臣に相当)慶親王がイギリスの調停案を拒絶
7月10日駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省に届く
7月11日清の調停拒絶を非難するとともに清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定
7月14日「第二次絶交書」に光緒帝が激怒し、帝の開戦意思を李鴻章(天津市)に打電
7月15日李鴻章は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じる
7月16日日英通商航海条約調印-開戦の障害が無くなる日英通商航海条約調印
7月18日海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派する(豊島沖海戦の発端)
7月20日大島公使は、朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退および清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう朝鮮政府に申し入れる
7月22日回答-1)改革は自主的に行う、2)乱が治まったので日清両軍の撤兵
7月23日龍山の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が漢城の王宮を攻撃、占領。大院君を担ぎ出して新政権を樹立。牙山の清軍掃討を日本に依頼させる
7月25日豊島沖海戦豊島沖海戦
7月29日成歓の戦い成歓の戦い
8月1日日清戦争宣戦布告日清戦争宣戦布告
8月5日大本営-参謀本部内から宮中に移動
8月26日大日本大朝鮮両国盟約を締結大日本大朝鮮両国盟約を締結
9月13日大本営-戦争指導のために広島移転(広島大本営)
9月15日明治天皇-広島に入る。平壌攻略戦で日本軍が勝利平壌の戦い敗戦
9月17日黄海海戦勝利。日本が制海権をほぼ掌握黄海海戦敗戦
9月19日李鴻章-持久戦(西洋列強の介入を期待)等を上奏
10月大院君扇動による甲午農民戦争 第二次蜂起(新政権と日本軍を相手にする反乱)
10月24日第一軍-鴨緑江渡河、第二軍-遼東半島上陸を開始
11月上旬調停のための斡旋を開始(米・英・露)調停のための斡旋を開始(米・英・露)
11月21日第二軍-旅順口を占領。旅順虐殺事件発生
11月末忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突、敗退する。
1895年
1月31日使節の張蔭桓と邵友濂が講和のために広島に到着したが、全権委任状でなかったため講和不成立となる。
2月1日広島で第一次講和会議(翌日、日本が委任状不備を理由に交渉拒絶)広島で第一次講和会議
2月中旬陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握
3月上旬第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領
3月19日 講和全権の李鴻章、全権委任状を持って下関到着。休戦を求めるが不成立
3月23日歩兵一個旅団が台湾島西方の澎湖諸島に上陸
3月24日条件を緩和して講和を急ぐ李鴻章、暴漢に狙撃され負傷。各国の同情が集まり、休戦の先延ばしが困難に。
3月30日日清休戦条約の調印日清休戦条約の調印
4月17日日清講和条約の調印日清講和条約の調印
4月23日遼東半島返還を要求(三国干渉
南満州の海への出口を失うことに繋がる日本の満州進出を阻止するため
遼東半島返還を要求(三国干渉)
1892年にロシアと露仏同盟締結していたため
遼東半島返還を要求(三国干渉)
清国から艦隊や貯炭所の割譲・租借できる可能性と露仏接近の妨害、極東への野心のため
5月4日伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定
6月17日台湾に台湾総督府を設置
8月6日台湾総督府条例により、台湾で軍政をしく。
10月8日乙未事変(閔妃暗殺事件)発生
11月8日遼東還付条約を締結遼東還付条約を締結
11月18日台湾総督、大本営に全島平定を報告
1896年
2月朝鮮での政治的に大きく後退露館播遷-高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとる
3月31日台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行
4月1日大本営の解散
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