榎本武揚 (
A.D.1836〜A.D.1908)
幕臣としてオランダに留学、のち海軍奉行。戊辰戦争の際、五稜郭で官軍に反抗。のち明治政府に参画し、1875年に駐露公使として樺太・千島交換条約を締結。藩閥政府の中で、逓相・文相・外相・農商務相などを歴任。
榎本武揚
幕臣としてオランダに留学、のち海軍奉行。戊辰戦争の際、五稜郭で官軍に反抗。のち明治政府に参画し、1875年に駐露公使として樺太・千島交換条約を締結。藩閥政府の中で、逓相・文相・外相・農商務相などを歴任。
戊辰戦争の最後の戦いを率いた蝦夷共和国総裁
オランダ留学でもう勉強 幕府海軍のエリートに。
榎本武揚は1836年(天保7)、江戸下谷御徒町に幕臣榎本円兵衛の子として生まれた。父円兵衛は天文・暦学・数学に明るく、伊能忠敬に師事して日本地図完成に寄与した一流の知識人であった。武揚も幼い頃から聡明で、昌平坂学問所で儒学、漢学を学んだほか、オランダ語、英語も身につけている。幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、1856年(安政3)に、武揚も2期生として入所し、国際情勢や西洋式の測量、航法、化学といった最新の学問を学んだ。27歳のとき、幕府留学生に選ばれオランダに留学。国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を貪欲に学んだ。勉強熱心な武揚はモールス信号機を下宿に据えつけ、その技術を習得したという。5年間の留学生活を終え、武揚は幕府がオランダに注文していた軍艦・開陽丸に乗って帰国。1868年(慶応4)1月、幕府の海軍副総裁に任じられた。
幕府艦隊を率いて北へ 戊辰戦争最後の戦い
しかしこの時期、幕府はすでに崩壊寸前だった。鳥羽・伏見の戦いで惨敗した15代将軍・徳川慶喜は、江戸に逃げ帰って恭順を表明。新政府軍への江戸城明け渡しが行われ、幕府所有の軍艦も引き渡すこととなった。武揚はこの決定に納得せず、抗戦派の幕臣とともに開陽丸をはじめとする幕府艦隊を率いて江戸湾を脱出。松島湾で旧幕府陸軍などを収容し、さらに北上して蝦夷地(北海道)へと向かった。武揚ら旧幕府軍はまず箱館を占領して五稜郭を本営と定め、松前城、江差地方を相次いで攻略した。そして1868年12月に蝦夷共和国を樹立する。人事は士官クラス以上の者による入れ札(選挙)で決定され、武揚は最大投票を得て初代総裁となった。しかし翌年春、新政府は艦隊を編成して蝦夷地攻略を開始。座礁によって開陽丸などを失っていた旧幕府軍は制海権を維持できず、新政府軍の上陸を許してしまう。箱館総攻撃開始から1週間後の5月18日、五稜郭に拠った武揚らはついに降伏を決定、戊辰戦争は終結を迎えたのだった。
明治政府に登用され新国家に尽くした後半生
士卒の生命の保証と引き替えに死を覚悟して降った武揚だったが、黒田清隆や西郷隆盛がその才を惜しみ助命運動を展開、2年半で釈放される。国際政治学などの知識を買われ、新政府に登用されることとなった。1874年(明治7)に特命全権ロシア公使となり、樺太・千島交換条約の締結に尽力。内閣制度が成立すると逓信、外務、文部、農商務の各大臣を歴任し、のちに子爵位まで授けられている。こうした生き方を変節と非難する声もあったが、武揚は一言も弁解しなかった。ただひたすらに自身の知識と経験を国家のために活かし、炭鉱・油田の発見開発、シベリア調査、私立東京農学校(現在の東京農業大学)設立など多くの業績を残したのである。その誠実な姿勢は「明治最良の官僚」とうたわれた。1908年(明治41)に死去。徳川幕府と明治政府それぞれに尽くした、有能の人であった。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
幕末の文化
幕府は1862(文久2)年には幕臣榎本武揚(1836〜1908)や洋書調所教官の西周(1829〜97)・津田真道(1829〜1903)をオランダに、1866(慶応2)年には中村正直(1832〜91)らをイギリスヘ留学させ、欧米諸国の政治・法制・経済を学ばせた。諸藩でも、長州藩では1863(文久3)年に井上馨(1835〜1915)・伊藤博文(1841〜1909)ら藩士5名をイギリスヘ留学させ、薩摩藩も1865(慶応元)年に五代友厚(1835〜85)・寺島宗則(1832〜93)・森有礼(1847〜89)ら19名をイギリスヘ送るなど、攘夷から開国へと政策転換するにしたがい、留学生などを外国へ派遣している。
このような動きのなかで、幕府は日本人の海外渡航の禁止を緩和し、1866(慶応2)年に学術と商業のための渡航を許可した。
- 幕末の文化 – 世界の歴史まっぷ
明治維新と富国強兵
戊辰戦争
1869(明治2)年5月には、旧幕府の海軍を率いて箱館の五稜郭に立てこもり抗戦を統けていた榎本武揚らも降伏し、ここに戊辰戦争は終わりを告げ、新政府のもとに国内統ーがひとまず達成された。
初期の国際問題
領土問題
幕末以来、ロシアとの間で懸案となっていた樺太(現サハリン)の領有問題は、明治政府も引き続いて交渉にあたっていた。その後、ロシアの南樺太への進出が強まるにつれ、政府部内には北海道開拓に全力を注ぐため樺太を放棄しようという意見が強くなり、開拓次官(のち長官)黒田清隆の主張が通って、1875(明治8)年、全権公使榎本武揚は樺太・千島交換条約に調印して、樺太全島をロシアにゆずり、その代償として千島全島を日本領と定めた。また当時、アメリカとその所属問題が未解決なまま残されていた小笠原諸島についても、1876(明治9)年、アメリカ政府がそれが日本領であることを承認して解決をみた。