正統主義 Legitimism
ウィーン会議の基本原則。タレーランが提唱した、フランス革命前の各国の王朝と体制を正統とみなし、その状態に戻そうとした考え。この会議で復活したブルボン朝が七月革命で没落したのち、ブルボン家の直系の子孫がフランス王国の正統かつ合法の王であるとして、その復位を主張した。
正統主義
ウィーン会議の基本原則。タレーランが提唱した、フランス革命前の各国の王朝と体制を正統とみなし、その状態に戻そうとした考え。
1814~15年のウィーン会議で採択されたヨーロッパ再建の一原則で、諸国の王侯の家門を、フランス革命とナポレオン戦争以前の状態に復活させようというもの。またフランス政治史上、この会議で復活したブルボン朝が七月革命(1830)で没落したのち、ブルボン家の直系の子孫がフランス王国の正統かつ合法の王であるとして、その復位を主張した際の政治的立場をいう。この正統王朝派は共和派に反対しただけでなく、オルレアン家を支持するほかの王党派や、ボナパルト系の帝政派にも反対した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代国民国家の発展
ナポレオンの大陸支配が崩壊し、変わって正統主義と各国の勢力均衡を原則とする保守的なウィーン体制が19世紀はじめに生まれた。この体制は、各国の自由主義や国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧したことから、騒乱が頻発した。1810〜20年代にかけてラテンアメリカやギリシアで独立運動が展開され、フランスの七月革命(1830)・二月革命(1848)とその影響をうけた各国の革命運動をへて、ウィーン体制は動揺・崩壊した。一方、イギリスは「世界の工場」としての経済的優位を背景に、いち早く国内の自由主義的改革や外交を実行し、ブルジョワジーが主導する社会に転換した。
ウィーン体制
ウィーン会議
タレーランの提唱した正義主義 legitimism は各国の君主に歓迎されて基本原則として採用され、ヨーロッパ各国の勢力均衡 balance of power がはかられた。ナポレオンのエルバ島脱出の知らせのあと、最終議定書(ウィーン議定書またはウィーン条約)がワーテルローの戦いの直前になって成立した。