殷墟
殷墟は、河南省安陽市に位置する殷墟は、後期殷王朝の最後の首都として、紀元前1300年頃~紀元前1046年まで栄えた都市。文献や資料によって都だったと実証されている遺跡としては中国最古のもので、古代中国の文化や工芸とともに青銅器時代の繁栄を伝える。
殷墟
河南省安陽市で発見された、殷王朝後期の都の遺跡。殷はしばしば遷都したが、第19代王の盤庚が遷都して以後、滅亡までの都と考えられている。人畜を殉葬した王墓や宮殿の遺跡が発見されている。
殷王朝の文明レベルを示す遺物が多く出土
北京の南方、安陽市にある殷墟は、中国最古の都市遺跡のひとつ。現在確認できる中国最古の王朝として知られる殷王朝後期にあたる紀元前1300年頃から紀元前1046年頃まで都がおかれた。
遺跡からは、神託などの結果を甲骨文字で記した亀の腹甲など、古代中国における言語や信仰の発展を示す重要な遺物が数多く出土している。また妃の墓が、当時の王族の墳墓には珍しく完全な形で残っており、ほかにも皇族陵墓や宮殿の遺跡がいくつも発掘されている。
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殷墟の出土品
現在世界で一番大きい青銅器「后母戊鼎」は、重さが875キロもある。
1,000以上の墓と5,000点を超える青銅器、6万以上の亀の甲羅や牛の骨に刻まれた最古の漢字「甲骨文字」が出土された。
殷墟遺跡
殷墟遺跡は規模が大きく、殷墟王陵遺跡、殷墟宮殿宗廟遺跡と洹北商城遺跡からなり、主には宮殿区、王陵区、一般の墳墓区、工房区、庶民住居区と奴隷住居区に分けられている。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
殷の成立
殷墟
紀元前1300年ころ、第19代の王盤庚は、現在の河南省安陽市小屯にあたる商(大邑商)に都を定め、以後滅亡までのおよそ300年間、遷都をおこなわなかった。1899年、この地で文字を刻んだ亀甲・獣骨が発見され、1928年よりおこなわれた発掘調査の結果、歴代王の墓などきわめて大規模な遺跡が発見され、殷の実在が確認されたのである。このため、この安陽市小屯の大邑商の遺跡を、一般に殷墟と称する。
文字
殷墟で発見された当時の文字は占いの内容を記したもので、亀の甲(主に腹甲)や牛の肩甲骨に刻まれていることから甲骨文字と呼ばれ、漢字の原型にあたるものである。
占いの方法は、亀甲や牛の肩甲骨を火であぶり、そこにできたひび割れの形状によって、神の意志を読み取るというもので、占いに使用した亀甲や獣骨には、占った日時や占いをおこなった者の名、占った事柄や占いの結果などが彫り込まれた。それはまた、中国最古の文献資料でもある。
当時の人々の考えた神は「帝」と記され、宇宙をつかさどる神であり、その意志によって未来が決定されるとした。そのため、天文気象から軍事行動の是非、災の有無など、あらゆることが占いの対象とされ、占いによって決定された。
殷王は、こうした占いの主宰者・祭司の長であり、殷の政治は、農事・国事のすべてについて神意を占い、それにもとづいて王が万事を決定する、祭政一致の神権政治であった。
甲骨文字の発見
黄河北岸の安陽市に住んでいた農民が、不思議な骨片を見つけた。これが薬屋の手に渡り、薬屋は粉にひいて、「竜骨」(漢方の薬)として売っていた。清朝の18〜19世紀には、古文字の研究が非常に進んでいた。たまたま、北京在住の清朝の大官王懿栄という人物の家に寄食していた学者劉鶚(劉鉄雲)は、粉末にする前の原料、すなわち骨片を見て、一驚した。そこに刻まれていた古拙な文字は、当時知られていた最古の文字よりも、もうひとまわり古い段階の文字であることを見抜き、現地で農民から骨片を買い取った。その場所は、のちにわかった殷墟であった。これを聞いた骨董屋たちも、彼のあとを追って買い出しに出かけ、これが北京の学者の手に入った。劉鶚は、この骨片の収集と研究に没頭し、『鉄雲蔵亀』という書物を出版し、驚くべき甲骨文字の存在を世に知らせたのである。
青銅器
また、殷代後期には青銅器がきわめて高度に発達し、複雑でこみいった模様の祭祀用の酒器や食器をつくりあげ、刀や斧、戈や矛(いずれもほこの一種)などの武器を鋳造した。
このほか、玉器や象牙製品も多数制作され、土器においても硬質で精巧な白陶がつくられた。このらの事物は、いずれも殷王の権力と財力の大きさを示している。
殷の青銅器
中国における本格的な青銅器文化の開始は、殷代初期である。殷代中期には、早くも高さ1mに達する大型の方鼎がつくられた。後期には文様も立体的になり、饕餮文が浮き出してくる。その鋳造法は、陶土でまず内型をつくり、さらにいくつもに分割した外型をつくる。その両型の空間に、溶かした銅を注入する。そのあとで型をくだいて青銅器を取り出すのである。したがって、ひとつの製品は、型は1回限りで、2度、3度と使用されるわけではないので、同一のものはない。この製法は、殷と周で完成された独自の技法である。ただ、この技法が、西アジアからもたらされたものではないかという説もあり、議論の余地はある。
国家形態
殷の国家形態は、諸邑の連合体ともいうべきもので、各邑にはそれぞれ首長(邑の支配氏族の族長)がおり、殷王と各邑の首長との間に支配・服属関係が結ばれることで、ゆるやかな連合体を形成していた。また、殷に服属した邑のなかでも強力なものは、他の弱小な邑を服属させている場合もあった。農地は各邑の周囲に広がっており、人民はそれぞれの邑の首長の統制に服していた。殷王は、邑の首長を通じて、これらの邑を間接的な支配・統制の下においていたのである。