法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山。斑鳩寺とも。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
法隆寺
律令国家の形成
飛鳥文化
推古朝を中心とする時代の文化を、当時の宮の所在地を冠して飛鳥文化と呼んでいる。
飛鳥文化の特色は、当初は渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、最初の仏教文化と称すべき状況にいたった点に求められよう。
594(推古天皇2)年には仏教興隆の詔が出され、仏教が政治の基本に捉えられた。
仏教の普及に大きく寄与したのは、蘇我氏と厩戸王(聖徳太子)とであった。厩戸王は、自ら「三経の義疏」という、法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経典の注釈書を著したと伝えられるなど、仏教に対して深い理解をもっていたとされる。
大王家や諸豪族は、古墳に変わってその権威を示し、氏の政治的結集の場とするために、きそって氏寺を建立した。
蘇我馬子が発願し、朝廷の保護を受け、588年に建立が始まった飛鳥の飛鳥寺(法興寺)、厩戸王の発願によると伝えられ、593年に建立された難波の四天王寺や、607年に建立された斑鳩の斑鳩寺(法隆寺)、秦河勝の発願により603年に建立された山背の広隆寺などがその代表的な例である。
その他、飛鳥をはじめとする全国各地に、礎石の上に丹塗りの巨大な柱をおき、屋根を瓦で葺いた、これまでの倭国の建築様式とはかけ離れた規模と様式をもつ寺院が、続々と建立された。
そして639(舒明天皇11)年には、百済大寺の造営が始まった。これは大王が造営した初めての寺院として、大きな意義を持つ。
参考
寺院データ
- 所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
- 位置 北緯34度36分53.06秒 東経135度44分3.02秒
- 宗派 聖徳宗
- 寺格 総本山
- 本尊 釈迦如来
- 創建年 (伝)607年
- 開基 推古天皇・聖徳太子
- 別称 斑鳩寺
- 札所等
南都七大寺7番
聖徳太子霊跡14番
神仏霊場巡拝の道第26番
大和北部八十八ヶ所霊場 第50~51番 - 文化財
法隆寺金堂釈迦三尊像(国宝)
五重塔、夢殿他(国宝)
中門金剛力士像他(重要文化財)
世界遺産
参考 Wikipedia
創建
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができます。
それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えています。
現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。
参考 公式ホームページ
法隆寺金堂
法隆寺金堂壁画
法隆寺東院夢殿
聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。
この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。
木造観音菩薩立像(夢殿安置)
法隆寺伝法堂
橘古奈可智(聖武天皇の夫人)の邸宅を移築。奈良時代の貴族の住宅を知る貴重な遺構である。もとは檜皮葺きであったという。