法顕
A.D.377〜A.D.422
法顕は、中国東晋の僧。60歳を過ぎてグプタ朝のインドに渡る。原典を入手し、14年後に帰国してからは仏典の漢訳に従事。旅行記『仏国記』は当時を知る貴重な文献。
法顕
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
魏晋南北朝の文化
魏晋南北朝時代には、社会の激しい変動に応じて、学問・芸術・思想・宗教などの各方面に新しい展開がみられた。そのうちでも仏教と道教の発展にめざましいものがあった。
仏教の受容
インドにおこった仏教は、西域をへて1世紀ころに中国に伝えられていたが、社会一般に広まったのは4世紀後半からである。とくに五胡十六国時代には、北方もしくは西方諸民族の支配のもとで、中国の伝統思想に縛られることが少なかったために、4世紀初めに西域から仏図澄が洛陽にきて布教を行い、5世紀初めには鳩摩羅什が長安に迎えられて布教や経典の漢訳が進んだ。
また、経典を求めてグプタ朝時代のインドに赴いた東晋の法顕は、往きには内陸アジアを経由する陸路を、帰りにはシンハラ(セイロン)より海路を利用し、帰国後その旅行記『仏国記』(法顕伝)を著した。
この時代の仏教は、一般に国家や貴族層の保護をうけたが、北朝ではもっぱら皇帝の保護のもとで繁栄し、とくに北魏では国家仏教としてさかんになった。このため皇帝の意向によって弾圧される場合も生じることになり、5世紀初めに北魏でおこなわれた廃仏は、皇帝が道教を信仰したためであった。
仏教の受容にともない、仏像・寺院もさかんに作られるようになり、五胡十六国時代に初めて開かれた敦煌(莫高窟 )や北魏時代に建築が始まった雲崗石窟・龍門石窟などの巨大な石窟寺院は、遠くインドのガンダーラ様式・グプタ様式や、中央アジア様式の影響をうけている。
また、江南でも慧遠ら中国僧の布教によって、仏教は貴族層に受入れられた。中でも梁の武帝(蕭衍)(位502〜549)は熱心な仏教信者となり、建康には多くの寺院がつくられた。
魏晋南北朝の文化 – 世界の歴史まっぷ
グプタ朝と古典文化
4世紀に入るとガンジス川中流域にグプタ朝(320〜550)がおこり、都をパータリプトラにおいて北インドを統一した。まず初代のチャンドラグプタ1世が王朝の基礎を固め、第2代のサムウドラグプタの時代に四周を征服して領土を広げた。サムドラグプタは南インドにも遠征軍を送ったが、この地を版図に加えることはせず、諸王の帰順を求めるにとどまった。
第3代のチャンドラグプタ2世(超日王)は西インドを征服するとともに、デカンのヴァーカータカ朝と婚姻関係を結ぶことによって南方への影響力を強めている。チャンドラグプタ2世の時代がグプタ朝の最盛期で、当時インドを旅行した中国僧の法顕の旅行記『仏国記』に、この国の繁栄のありさまが記されている。その繁栄はまた、この王朝の発行した多種多様な金貨からも知られる。民間では貝貨が一般的に用いられた。しかし5世紀後半になると諸侯の離反、独立によって国内が乱れ、また西北からエフタル民族の侵寇もうけて衰退し、6世紀半ばに滅んだ。グプタ朝衰退の原因としては、このほかに西方世界との交易の停滞と、国内における都市経済の停滞があった。インドの古代文明 – 世界の歴史まっぷ