津田梅子(国立国会図書館蔵/画像出典:近代日本人の肖像

津田梅子


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津田梅子 つだうめこ( A.D.1864〜A.D.1929)

岩倉使節団に随行した最初の女子留学生のひとり。8歳で渡米、1882年に帰国後、女子教育に尽力。華族女学校(のち女子学習院)で英語教師となり、のち再渡米。1900年女子英学塾(津田英学塾, のち津田塾大学)を設立。

津田梅子

岩倉使節団に随行した最初の女子留学生のひとり。8歳で渡米、1882年に帰国後、女子教育に尽力。華族女学校(のち女子学習院)で英語教師となり、のち再渡米。1900年に女子英学塾(津田英学塾, のち津田塾大学)を設立。

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日本初の女性留学生

幕臣であった父の推薦により、わずか8歳で、岩倉使節団に随行し、アメリカに留学。11年後に帰国し、国際人としての女性の育成、女子英語教育の向上に尽力する。1900(明治33)年、女子英語塾(のちの津田塾大学)を設立、少人数教育が梅子の理想であったといわれる。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

明治維新と富国強兵

初期の国際問題
岩倉使節団

1871(明治4)年、政府は右大臣岩倉具視一行を欧米に派遣して、条約改正の予備交渉と欧米の国情視察にあたらせた。この使節団には副使として参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔たいふ伊藤博文ら、政府の中心人物たちが参加していた。条約改正交渉は、法体系の未整備など日本の国内の近代的諸制度がまだ確立されていなかったため、ほとんど相手にされなかった。しかし、使節団一行が議会・官庁・工場・学校・病院などの近代的諸施設を実地に視察し、立憲政治の発展、産業の振興、自主の精神の実現などに支えられた欧米諸国の充実した国力と、日本の立ち遅れを痛感して帰国したことは、その後の欧米列強を目標とした急速な近代化政策の展開のために、大きな刺激となった。

また、使節団には近代日本最初の女子留学生5人を含む約60人の留学生が同行した。留学生の多くは留学生活を終えて帰国したのち、いろいろな分野の専門家として、お雇い外国人にかわって、日本の近代化の推進役をつとめた。

女子留学生のはじめ

岩倉使節団一行には吉益亮子よしますりょうこ上田悌子うえだていこ山川捨松やまかわすてまつ永井繁子ながいしげこ津田梅子つだうめこの5人の女子留学生が同行していた。彼女らは数え年8歳から15歳の少女たちで、いずれもアメリカ人家庭に引き取られて勉学し、山川・永井・津田は10〜11年に及ぶ留学生活を送った。最年少だった津田は、いったん帰国したのちも再三渡米・渡英し、1900(明治33)年には女子英学塾(現津田塾大学)を創立するなど、女子教育の発展に功績を残した。また山川は陸軍卿大山巌と結婚して社会事業や女子教育の発展を支援し、帰国後に海軍軍人の妻となった永井は、東京音楽学校で音楽教育に尽力した。

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